世の中には「暗黙の了解」などという見えない力が存在する。
互いの心の内を察せられる者同士が成せる高度な技だ。
だから大型商談のクロージングも一発で決まる。
大規模な事業提携や資本提携も阿吽の呼吸で即決する。
相手が発する言葉の裏にはどんな裏事情が潜んでいるのか。
それが見えれば相手が望むように誘導していくだけでよい。
その後はこちらが望むように相手も共鳴して動いてくれる。
商談・交渉・契約は全てが暗黙の心と心の会話である。
意味の無い飾り言葉に褒め言葉などは不要の世界である。
ただし重要な事項が一つだけある。
それは自身が絶対的なステークスホルダーでなければならないということだ。
誰もが欲しがる技術・特許・商権を持っていなければ成せない技法だ。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
繁華街の場末に民家を改造した小さなビストロがある。
メニューは「本日のコース」しかなく料理だけで1万円。
旬の食材を活かした料理で全てがシェフのお任せ。
何度か足を運ぶが同じ料理が出てきたことがない。
飲み物代入れて平均客単価はかなりの額になる。
全席予約制で1か月以上も予約が埋まっている。
こんなビストロをどんな人が経営しているのだろうか。
調べてみたらオーナーシェフは靴製造会社の現役の会長である。
料理好きの道楽で始めたビストロなのだそうだ。
ところで経歴を誇るだけの料理人とは何だろう?
料理は食べてみないと解らない。
そこに食材だの経歴などは無関係である。
単純に美味しいものを気分良く食べたいからそこに行く。
プライドだの拘りだのを出しているうちは三流もよいところである。
結果が出なければ経験も技術も意味のないお飾りに過ぎない。
プロと言うなら現実を直視することだ。
料理に限らず全ての世界のプロに言えることである。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
「遠い親戚より近くの他人」
血の繋がりよりも強い絆は確かに存在する。
例え血が繋がっていなくても気持は家族。
ただ自分がそう思っていても相手が望まないかもしれない。
自己利益だけを考えフリを決め込んでいるのかもしれない。
更には「身内」意識に勘違いを起こす人もいる。
「親しき仲にも礼儀有り」
これを忘れているようでは本末転倒の極みである。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
デジタル全盛時代の到来。
デジタルデバイドの確立でデジタル難民が増えてくる。
ここでデジタル難民とはデジタルを理解できない人ではない。
ある程度デジタルを理解し活用している人である。
まったくデジタルに精通していない人は難民に非ず、
アナログという世界で悠々自適に暮らすことができるから。
デジタルをビジネスにプライベートに活用している人が、
突然のようにデジタル難民化するのである。
未来に起こるデジタル革命は想像を絶する世界となる。
今の価値意識でデジタルに接し続けていると、
ある時点においてとんでもない悲劇が訪れる。
少なくてもデジタル製品は自分の意思によって使う道具であって、
自分の思考を委ねる神器ではないことだけは確かである。
スマートフォンを片手に持ったデジタル難民予備軍が、
大挙して通り過ぎていく昨今。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
「人生七味」を経験することで人間性が磨かれるという。
「うらみ(恨み)」は他者の行為に不満を持ち憤り憎む気持ち。
「つらみ(辛み)」は他者の行為を辛いと感じる気持ち。
「ねたみ(妬み)」は他者を羨ましく思う分憎らしく感じる気持ち。
「そねみ(嫉み)」は妬みが重なり強いストレスを感じる気持ち。
「いやみ(嫌み)」は他者に不快を与える行為。
「ひがみ(僻み)」は妬みが強くなったひねくれた感情。
「やっかみ」は妬みが強くなり相手を攻撃したくなる気持ち。
正直どれも人間性が磨かれるとは思えない感情に感じる。
意味も必要も無いことは経験しない方がよい。
した方がいい経験としない方がいい経験がある。
これを貫き通せる人が何事においても失敗しない人である。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。