経験による脳の手抜き処理が思い込みの本質である。
実際にやってみるまでもなく脳が勝手に回答を導き出す。
物事に関しては実に合理的な脳の機能ではあるが、
こと対人に関しては危険極まりない機能である。
人によって思想も思考も価値観も異なるのだから。
つまり新たな関係に過去の経験は障害になっても参考にはならない。
しなくてもよい経験を積んできた人は、
確かめることもなく好意を懐疑的に捉えるようになる。
本物の愛情を知ることもなく人生を終えることになる。
思い込みによる誤った判断は取り返しのつかないことになる。
しなくてもよい経験からくる思考の修正は自身で行うしかない。
悪しき記憶を清算し常に現実を観て本物に触れて生きることだ。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
土砂降りの大雨も何時かは晴れあがる。
厳寒の冬も耐え凌いでいれば春が訪れる。
不安で眠れぬ夜も数時間後には朝を迎える。
成人病も難病も受け入れれば対処できるようになる。
理不尽を認めれば不満や惨めさから開放される。
自然の摂理に抗うから辛い事実だけが表面化する。
自身に起こる全てを真摯に受け入れることだ。
自然の摂理に従えば障害など恐れるに足りない。
自然に生きるとはこういうことなのかもしれない。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
想像は過去の経験によって確実に世界観が変わる。
経験が多ければ想像の世界感も大きく広がる。
他者の気持に鈍感な人は、
確実に経験不足による想像力が欠如しているからだ。
逆にしなくてもよい経験を多くしている人はどうだろう。
この場合はしないほうがよい余計な想像をしてしまい、
これによって多くのチャンスを逃すことになる。
不正確な想像とは思い込みという代物である。
現在の自分の思考も置かれた立場も、
全ては過去からの原因による結果が現実化しているに過ぎない。
結局のところ想像の中身もその結果において行われている。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
「忖度してあえて言わなかった」などと言い訳する輩。
それは忖度なのではなく言う勇気が無かっただけだ。
言わなければいけないことは怒られようがはっきり言う、
言わなくても良いことは感情的になっても言わない。
真の忖度とはそういうものだ。
少なくても自分の弱さを隠すための言葉ではない。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
人生の底を見極めるのは実に難しい。
経験豊富な人にとっても困難を極める。
経験則だけでは見極めることのできない代物である。
ただ一つ言えることがある。
底を見極められないことなど大した問題ではない。
重要なのはどんな人も必ず底を経験しているという事実だ。
そして永遠に落ち続ける底無し人生は存在しないということだ。
谷深ければ山高しで底が深ければ高嶺が待っている。
悪いことはまとめて起こる方がよい。
底さえ確認できれば後は這い上がればよいだけだから。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。