困った人を見ても知らぬ顔で通り過ぎる。
責任が及ぶことからは距離を置き傍観する。
推進力は皆無で仕事は遅いのに逃げ脚だけは早い。
家族を引き合いに一切のリスクを取らない。
相手の気持よりも自分の都合を優先する。
貰うことには必死でも与えることを一切しない。
男尊女卑よろしく女性には上から目線で話す。
なんとも男気の無い輩が多くなったと嘆くことばかりである。
男気の無い男ほど厄介な人間はいない。
であれば男気有る女性を登用するのは間違った選択ではない。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
合意した事項を自己都合でキャンセルする人が多くなった。
白紙撤回のリスクを何も考えていない人はある意味幸せである。
進めるにも地獄であるが戻るはもっと酷い地獄である。
先人の知恵を知っていたら普通は戻ることを選択しない。
ところで合意を信じて動いてくれた人の、
それまでの時間と労力という損失をどうするのか?
多くの実例では進めるリスクよりも、
撤退や白紙に戻すリスクの方がはるかに規模が大きい。
特に支援者との縁が切れるというのが最大のリスクである。
約束を簡単に破る人に天は味方することはない。
忘れた頃にやってくる大きな災いを受け、
事の重大さに気付いたとしても時既に遅し。
戻るリスクを熟考しなかった自身に大きな失望と悔恨を残す。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
自分は今幸福なんだなと意識する瞬間がある。
他者の成功を心から祝うことができるとき。
活躍している若者を見て応援したくなるとき。
スタッフやパートナーのポカミスを笑って看過できるとき。
理不尽極まるクライアントと笑顔で向き合えるとき。
これらは余程の心の余裕がなければできないことだ。
幸福感で満たされれば自然に心に余裕が生まれる。
そして更に幸福感に包まれていく。
幸福になりたければ心の余裕を強く意識することである。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
大金はたいて買っても一度も着なかった服の山。
使うことなく埃をかぶっているだけの家電の山。
読まれず壁を埋め尽くしているだけの書籍の山。
何の役にも立たなかった人への高額な報酬。
過去どれほど無駄な出費を繰り返したか解らない。
それでも今までに後悔したことは一度もない。
何故なら出費したお金は市中を回り、
多くの人の生活を支えながら何れは戻ってくるのだから。
つまり出費ではなく一つの投資だと考えている。
常に貰うだけの人は投資意識が欠如している。
だから生きていく手段だけの消費人生で終わる。
経済循環の摂理とは何か、
一度も成功したことがない人は今すぐ熟考すべき事項である。
熟考するなら「成功するにはどうすべきか」ではない。
「何故自分は一度も成功したことが無いのだろう」である。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
支援や協力を得たいと懇願する人に問いたい。
私はあなたの成功を保証するがあなたは私に何を与えられますか?
この問いに考え込んでいるうちは信用するに値しない。
必死で支援しても意味の無い時間とお金を浪費するだけである。
それだけならまだ良いが、
時には支援したこちらが大きな不利益を被ることもある。
支援や協力を真に得たいと思うなら、
自身が他者に与えられるステークスを先ずは得ることだ。
他者のステークスと支援で自己利益の算段をしておいて、
「利益が出たら配当します」だと?
覚悟が無い者の口癖は実に自己都合極まりない。
与えたお金で買ったプレゼントを貰って喜ぶ人はいない。
そもそも恩とお金を繋げて考えている時点でアウトだ。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。