デジタル全盛時代の到来。
デジタルデバイドの確立でデジタル難民が増えてくる。
ここでデジタル難民とはデジタルを理解できない人ではない。
ある程度デジタルを理解し活用している人である。
まったくデジタルに精通していない人は難民に非ず、
アナログという世界で悠々自適に暮らすことができるから。
デジタルをビジネスにプライベートに活用している人が、
突然のようにデジタル難民化するのである。
未来に起こるデジタル革命は想像を絶する世界となる。
今の価値意識でデジタルに接し続けていると、
ある時点においてとんでもない悲劇が訪れる。
少なくてもデジタル製品は自分の意思によって使う道具であって、
自分の思考を委ねる神器ではないことだけは確かである。
スマートフォンを片手に持ったデジタル難民予備軍が、
大挙して通り過ぎていく昨今。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
「人生七味」を経験することで人間性が磨かれるという。
「うらみ(恨み)」は他者の行為に不満を持ち憤り憎む気持ち。
「つらみ(辛み)」は他者の行為を辛いと感じる気持ち。
「ねたみ(妬み)」は他者を羨ましく思う分憎らしく感じる気持ち。
「そねみ(嫉み)」は妬みが重なり強いストレスを感じる気持ち。
「いやみ(嫌み)」は他者に不快を与える行為。
「ひがみ(僻み)」は妬みが強くなったひねくれた感情。
「やっかみ」は妬みが強くなり相手を攻撃したくなる気持ち。
正直どれも人間性が磨かれるとは思えない感情に感じる。
意味も必要も無いことは経験しない方がよい。
した方がいい経験としない方がいい経験がある。
これを貫き通せる人が何事においても失敗しない人である。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
不思議なことに植物も動物も適当に世話するとよく育つ。
何故か大事に育てようと必死に世話をすると、
慎重になり過ぎるのか枯らしたり病気にさせてしまう。
「過ぎるは足りぬと同じこと」とはよく言ったものだ。
これは自分自身に対しても同じではないだろうか?
プライドに譲れない拘り、
大事にし過ぎて本当に大切なものを失ってないだろうか。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
失敗は成功することで失敗にはならない。
最終的に勝てば過去の負けは負けにはならない。
過去の失敗や負けは成功や勝利の後には、
糧にも勲章にも成りうるということだ。
ただし一時の結果は常に潔く受け入れることが肝要。
結局は全てがある時点での結果次第ということだ。
「優勝するには負け試合をどれだけ正確に読めるかにある」、
これはプロ野球常勝監督の有名な言葉である。
失敗や負けを先に読んで、
最終的に成功や勝利に繋げられる人はほとんどいない。
普通の人と同じ事をしないから成功者になれる。
そう考えると成功思考とは何かが明確に理解できる。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
還暦過ぎても意固地な人は本当に厄介な存在である。
自身の考えとやり方が全てであって、
他者のどんな優れた能力も認めようとしないのだから。
他者の悪いところばかりを指摘できても、
自身の愚かな思考や行動を自己評価し省みることができない。
自身の僅かな稼ぎを自慢げに話しができても、
他者の大商談の利益を認めようとはしない。
いったい彼らはどんな生き方をしてきたのだろうか?
還暦過ぎたら生き方を悔い改めることは極めて困難である。
こうして老後人生の二極分化が決定し確立されるのだろう。
どんな人生を送るかは人それぞれでよいと思う。
ただ意固地な人生に家族を巻き込むのは如何なものだろうか。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。