自分は今幸福なんだなと意識する瞬間がある。
他者の成功を心から祝うことができるとき。
活躍している若者を見て応援したくなるとき。
スタッフやパートナーのポカミスを笑って看過できるとき。
理不尽極まるクライアントと笑顔で向き合えるとき。
これらは余程の心の余裕がなければできないことだ。
幸福感で満たされれば自然に心に余裕が生まれる。
そして更に幸福感に包まれていく。
幸福になりたければ心の余裕を強く意識することである。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
大金はたいて買っても一度も着なかった服の山。
使うことなく埃をかぶっているだけの家電の山。
読まれず壁を埋め尽くしているだけの書籍の山。
何の役にも立たなかった人への高額な報酬。
過去どれほど無駄な出費を繰り返したか解らない。
それでも今までに後悔したことは一度もない。
何故なら出費したお金は市中を回り、
多くの人の生活を支えながら何れは戻ってくるのだから。
つまり出費ではなく一つの投資だと考えている。
常に貰うだけの人は投資意識が欠如している。
だから生きていく手段だけの消費人生で終わる。
経済循環の摂理とは何か、
一度も成功したことがない人は今すぐ熟考すべき事項である。
熟考するなら「成功するにはどうすべきか」ではない。
「何故自分は一度も成功したことが無いのだろう」である。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
支援や協力を得たいと懇願する人に問いたい。
私はあなたの成功を保証するがあなたは私に何を与えられますか?
この問いに考え込んでいるうちは信用するに値しない。
必死で支援しても意味の無い時間とお金を浪費するだけである。
それだけならまだ良いが、
時には支援したこちらが大きな不利益を被ることもある。
支援や協力を真に得たいと思うなら、
自身が他者に与えられるステークスを先ずは得ることだ。
他者のステークスと支援で自己利益の算段をしておいて、
「利益が出たら配当します」だと?
覚悟が無い者の口癖は実に自己都合極まりない。
与えたお金で買ったプレゼントを貰って喜ぶ人はいない。
そもそも恩とお金を繋げて考えている時点でアウトだ。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
せっかく作ってあげた料理。
何時までも食べずに放置しているなら無言で捨てる。
せっかく教えてあげた情報。
何時までもやらずに放置しているなら二度と教えない。
喜んでほしいから気持よく与える。
でも無視されたり放置されれば極めて不愉快になる。
お節介だと思われていると考え気持が萎える。
だからその人には二度と与えることはしない。
波風を立てたくないしストレスを抱えたくないから。
与えてもらったなら好む好まないなどどうでもよい。
取りあえず「ありがとうございます」の一言が肝要である。
それからそれをどうするかを考えればよい。
他者の気持や愛情に鈍感なのにも程がある。
他者の気持が理解できない人とは、
何をやっても一緒に愉しめることなど何も無い。
他者に干渉されたくないと思うなら何も貰わないことだ。
自身の能力とお金を使って孤軍奮闘で稼げばよい。
それなら誰も干渉しないし余計なものを与えることも無い。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
気の流れや人が発するオーラ。
未来に起こる事象にトレンドカーブ。
この世には目では見ることができない確かな力が存在する。
私はこれらを子供の頃から敏感に感受してしまう。
でもまったくそれを感受できない人がいることには驚く。
たとえ感受できても放置しているなら同じことだ。
見えない力を感じる人は、
自ら修正することも作り出すことも可能である。
これを信じる人は守られ信じない人は淘汰される。
これもまた見えない力の存在の証明でもある。
見えない力の存在を甘く考えない方がよいと思う。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。