人の心は鬼や霊より怖いと思うことがある。
知らぬところで何を言われているのか。
平気で嘘をついては信頼を踏みにじる。
背景にあるのは自分の損得勘定と都合だけ。
自己都合のためなら簡単に関係性をも解除する。
人という存在そのものを信じてよいのか本当に解らなくなるときがある。
ただ本当に信頼できる人には一切の疑義は生じない。
何故なら何が起ころうがどうなろうが、
それは何か重要な裏事情があってのことだと考えるからだ。
これが真の信頼関係というものである。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
何かを買う時にはお金を支払う。
同じように何かを得ると何かを失うものだ。
失うのが嫌なら何も得ようとしないことだ。
他者から貰うだけで生きてきた人はよく考えた方がよい。
得てきたものの対価を何処かで支払うことになる。
逆に与えてきた人は何処かで今度は戻ってくる。
失いたくないなら同等の何かを与え続けることだ。
世の中のすべてが自然の摂理で成り立っている。
ある地点でエネルギーは相殺されてゼロになる。
エネルギー不変の法則を学んで実践することが尊い。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
気に入っていた食器を割って落ち込む。
大切に取っておいた料理にカビが生えてショックを受ける。
頼りにしていた人に去られて途方に暮れる。
虎の子の貯金が無くなり不安が募る。
いつまでもあると考えているからそうなるのは当然だ。
万事いつかは無くなるものだと考えたらどうだろう。
「それは最初から無かったもの」
そう考えれば失う怖さから常に解放されて生きられる。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
「信じる者は救われない」とは、
「信じる者は足元を掬われる」から転じた言葉。
信じた結果において騙されようが、
期待外れだろうが潔く受け入れることだ。
一度でも信じた人を信じ通すには覚悟が問われる。
最後まで覚悟が決まらない人が、
言い訳で作る言葉には心は微動だもしない。
私はこれまで他者を信じることで失ったものは何もない。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
何かを得ようと思うなら、
それに相応する何かを差し出さなくてはならない。
与えずに都合よく得ようとしても天は許さない。
食えないプライドを捨て、
意味の無い人脈を捨て、
つまらない拘りを捨て、
初めて願いが叶うというものだ。
抛磚引玉(ほうせんいんぎょく)の如く瓦礫を捨てて宝玉を得よ。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。