一つのパーツが頭に浮かぶ。
そのパーツを考えていると別のパーツが頭に浮かぶ。
それがどんどん増えていき頭の中で収拾がつかなくなる。
浮かんでは消え新たに浮かんでくるパーツの山。
来る日も来る日も自らをストイックなまでに追い込んで、
根気強くパーツを一つ一つ時間をかけて熟考していく。
とある瞬間バラバラだったパーツが一瞬にして組み上がる。
この達成感に心の底から晴々しさが沸いてくる。
忘れることができないほどの大きな喜びを得る瞬間。
精神を集中させた証明でもあり継続してきたことへの勲章である。
それは生涯に渡り大きな金字塔となり、
かけがえのないキラリ輝く宝玉となる。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
ビジネスにプライベートに、
やることがめいっぱい詰まった長い一日。
こんな日が長期連続するときは誰しもある。
こういう怒涛の如く急務が押し寄せるときは、
確実に「流れの岐路」に入り込んでいるときである。
善き流れに乗れるのか、
それとも悪しき流れを作ってしまうのか。
その結果は誰にも解らない。
ただ善き流れに乗れる直前には、
一瞬だが穏やかなフォローの風が吹く。
この極微妙なフォローの風を感じとれるか否か、
経験で鍛えられた超肌感覚が最も活きる瞬間である。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
刹那な瞬間の勝敗を論じたところで何の意味も無い。
一時の勝ちは勝ちに非ず。
一時の負けは負けに非ず。
例え相手に勝ちを譲ってその時は負けたとしても、
次の瞬間に幾らでも逆転で勝ちを収めることができる。
勝敗の意味を正確に知り負けを計算できる者は本当に強い。
勝ちを譲れば相手は自力で勝ったとばかりに油断する。
その油断が後の致命傷になるとは誰しも考えないだろう。
陰陽織り交ぜ誘導を仕組んでおいての負けた振り。
最終的に勝つことを確信できているからこそできる技である。
高度な戦略戦術なき者は必ず負ける。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
若い人によく見られる感情委譲。
ドラマの主人公に自身を同化させ、
どうでもよい他者の生き方に翻弄される。
ところが自身の生き方や思考が明確に確立してくると、
他者への感情委譲はぴたりと止まる。
自身と他者を綺麗に隔離できるようになる。
つまりこれがアイデンティティの確立ということだ。
そうなるまでが大変だけど、
他者事に心動かされたら意識すべき事項である。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
他者の良いところだけを学ぶのが学びではない。
他者の悪いところを見て、
自身の教訓として学ぶことも学びの重要事項である。
全ての事象に陰陽で思考することだ。
どんなことにも陰陽が潜んでいる。
良いところと悪いところ。
見えるところと見えないところ。
しっかり見極めて陰陽の思考で学びとることだ。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。