新しい事を始めると必ず邪魔が入るものだ。
それを前向きに捉えなければ押しつぶされてしまう。
意見されて引っ込めるような志は本物ではない。
周囲には単なるパフォーマンスだったと映るだろう。
一度でも口にしたら必ず実現させなくてはならない。
ところで「新しい文化を創造する」という世に蔓延した流行りセリフ、
それを示す前に自分が改革者として先ずは自ら変革してほしい。
自身の過去の結果としての今の状況が存在している。
考え方一つ変えずに理想を掲げたところで、
いったい誰がそれを信じることができるだろうか。
「有言実行」ありきで言った通りの結果を残すこと。
これほど成功する人だという根拠を示す姿勢は他には無い。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
見慣れたはずの景色も視点変えれば別物となる。
納得できない他者の振舞いも視点変えれば理解できる。
過去に培われた一方的な常識は正しい思考の障害となる。
常識化された情報は思い込みというフィルターに変わる。
フィルターを通した思考では何時までも真理は導けない。
新しきを生むのは常にニュートラルな無垢の思考である。
過去を思い出しても過去の思考に囚われることなかれ。
新たなる疑問を過去の経験と結び付けて判断するなかれ。
疑問が湧きあがったら独りよがりに思考するなかれ。
全方位から正しい情報を得て正しい真実を導き出せ。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
溺れかけている者、
覚悟を決めたら意外と底が浅いことに気付く。
飢え死にしそうな者、
覚悟を決めたら意外と食べらるものが多いことに気付く。
難題に苦しむ者、
覚悟を決めたら意外と解決策が多いことに気付く。
往生際にジタバタするのは覚悟が決まっていない証拠。
そういう人に限って「もう限界」などと簡単に言う。
そして最も選択してはならない楽な道に逃げ込んでしまう。
やるべきことを熟考し実行してこなかった証拠。
志を一度でも持ったら覚悟を決めて進むことだ。
覚悟を決めた者に苦しみの限界など有り得ない。
覚悟とは永遠に続く苦しみに耐えきるという意思表示である。
これこそが成功を収められる者の姿勢というものだ。
耐えきれば大きな喜びと理想の生活が褒美として齎される。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
曖昧な状況をあえて作りあげては、
意味不明で中途半端な施策を繰り広げる。
余裕有る時は最大級の相手を油断させる騙しの戦法でもある。
そして百戦錬磨の経験者が得意とする誘導の戦法でもある。
この混沌と見える状況の水面下で大事を密かに進める。
霧が上がった時には既に大きな収益を得ている。
しかし余裕が無く経験不足の人が行うと、
取り返しのつかない最悪の結果を齎すことになる。
余裕が無く経験が少ない人は、
逆に曖昧な状況を全てリセットして明確な状況にすることだ。
そしてクリティカルな施策を一つだけ全力で実行する。
これなら後に引けないから覚悟が決まるだろう。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
思ったように事が運ばないときがある。
こんなときは悲観せず思考を変えて別の方法を探ることだ。
全ての事象は一過性のものであって全てではない。
また一つの事象が永遠に続くこともない。
善い状況は一瞬にして悪い状況に変化し、
悪い状況は一瞬にして善い状況に変化する。
思考を変えて広い視野に立って大局を観れば、
悪い状況は善い状況への兆候であることが実に多い。
一つの事象だけを見て悲観することなかれ。
一つの事象だけを見て安心することなかれ。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。