ある種のアイデアを基にアドバイスを求める人がいる。
他者にアドバイスを求めることは構わない。
でも自分からは一切行動を起こさないのは何故だろう。
他者に話す前に自分でとっととやればいいと思う。
世の中行動してから口に出す人が信頼される。
ビジネスは姿勢と結果だけが信用の根拠なのである。
口先だけで行動しない人は自信と覚悟が無い。
だから共感し経済支援してくれる人を探し求めることに始終する。
一人では不安で何も出来ないから。
他者のノウハウと資金をあてにしては妄想の中で生きている。
他者を頼るうちは被害者を増やしただけで終わるのが常。
押し並べて「口先人間」は他者に不利益を齎しても、
利益を齎す人ではないことだけは確かだ。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
女性は守りに入ると完璧に防御し更に強くなる。
そして闘争本能が向上し平和を乱す者の排除に燃える。
対して男は守りに入ると哀れなほどに弱くなる。
守ることに必死で相手にやられ放題にやられてしまう。
男の最大の守りは防御することではなく、
攻撃してくる相手を全力で打ち倒すことにある。
更に攻撃への反撃は腕力のみに非ず。
知力・財力・組織力など全てが戦うための武器である。
守る男に自身もそして大切な人を守れない。
戦う男は守るべき人も財産も全てを守れる。
守りに入った男ほど惨めで情けない姿は他にない。
守りに入った瞬間に多くの隙ができる、
相手はその隙を狙ってあの手この手で攻めてくる。
何故なら相手にも守るべき人や財産の存在があるからだ。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
対等な信頼関係とは、
自身の望むことと相手の望むことを相互に担保することにある。
自身の望みばかりを要求し相手の望みは肩透かし。
これでは信頼関係を築けないばかりか、
突然のように縁を切られても文句の一つも言えないだろう。
相手の望みが受け入れられないのであれば、
最初から自身の望みを要求すべきではない。
それは利己主義の極みというものである。
他者から与えられるだけの人生など有り得ない。
どこかで必ず与えられた以上のものを失うことになる。
自身が望む目標達成には、
先ずは支援者の要求を受け入れる覚悟が必須である。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
最近の日本人は正しく日本語が使えないと言われて久しい。
昔から存在する言葉を思い込みだけで使っている人もいる。
そして多くの言葉の誤用に気付いてない。
例えば「うがった」という言葉は「穿った」と書き、
「物事を深く掘り起こして考える」という肯定的な意味である。
ところが「疑いをもって」などの意味で使っている人が実に多い。
言葉の持つ響きだけで思い込んでいるのか、
それとも誤用している人の真似をしているのか、
何れにしてもいい歳をして言葉の誤用は恥ずべき行為である。
正確に知らない言葉の乱用は自身の株を下げるだけだ。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
「女性の品格」という言葉が流行った時代がある。
男性諸氏は品格ではなく風格という言葉を意識してほしい。
そこにいるだけで皆に安心感を与え、
プロジェクトに加われば成功したも同然だと思わせる力だ。
そういう真の強さを持った逞しい男が少なくなった昨今。
いい歳してもなお言葉や行動で存在感を示そうとしている。
周囲が求めているのは意味の無いデキル男アピールではない。
デキル男アピールは相手にしたくない程にうざいだけだ。
風格とはその人の人生そのものを表しているのだと思う。
どんな経験をしてきたかがものの見事に表面化したものだから。
男性は風格という見えない力を身に着けるべきである。
周囲にどんな時もバックに居て支えられているという安心感を与え、
憂うことなく業務推進に集中できる。
これがリーダーが最も考えなくてはならない環境構築なのである。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。