相手が示した案のうちどちらかを選んでもアウト。
それならばと自分の考えを示してもアウト。
何を選んでもアウトの連続で奈落の底に落ちていく。
しかし何故そうなるのだろうか。
この問いに明確な回答が出せないからに他ならない。
常に自分の利益を優先する人が陥る奈落の底症候群。
実は這い上がるのは極めて簡単である。
損得思考を捨て相手の気持ちを優先すればよいだけだ。
相手は今どんな回答が欲しいのか、
それが明確且つ瞬間的に解るまで奈落の底症候群状態は続く。
もがけばもがくほどに更に深い底に落ちていく奈落の恐怖。
いっそ沈んでもいいやと開き直ったらどうだ?
案外力が抜けて素直に相手の気持ちが解るかもしれないから。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
偶然が重なることで起こる現象を「普遍性の法則」という。
隠居前の断捨離を始めたら各種の障害が勃発しだした。
メールシステムの送信障害に始まり、
家中の電化製品の故障が連発した。
ロボット掃除機に始まり洗濯機にブルーレイプレーヤー、
スマートフォンやエアコンに照明機器と次々に。
この偶然が重なる怪奇現象をどう捉えたらよいのか。
私は「理想郷の早期実現催促」だと思い熟考した。
メールは必要最小限のアカウントだけを残して統合し、
故障した電化製品は全て最新のものに交換した。
これをきっかけにして新事業のシステムを1から作り直し、
事業計画書を投資家目線で内容を刷新した。
加えて老後の為の幾つものWebサイトをローンチさせた。
催促に従う流れは極めて順調に善い方向へと流れている。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
最近になって気付いた事がある。
それは自分に合っている食べ物は飽きないということだ。
こういうものはいつ食べても美味しいと感じる。
身体は素直に自分に必要な栄養素を欲している。
それを素直に食べるのが健康の秘訣だと思う。
欲しないものを食べても不味いだけ。
健康に良いからと不味く感じるものを食べる行為は、
逆に身体に負担をかけているのではないかとさえ思う。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
時化(しけ)どきの大波。
波に抗う船は転覆し従う船は難なく乗り切れる。
自然の流れに抗えば益々状況は悪くなる。
従えば何事も無かったかのように平穏に戻る。
そもそも流れに従えないときは波に乗らないことだ。
抗いながら乗ったところで大怪我をして退散あるのみだ。
乗るなら流れに素直に従う覚悟を持つことが必須条件。
流れのなかで起こる事象の全てを受け入れられるからだ。
他者が敷いたレールに「乗る」とはこういうことだ。
自分の意思を優先する者に他者のレールに乗る資格はない。
他者のレールに乗る者は常に覚悟の程を問われている。
中途半端な覚悟の者は同乗者に迷惑をかけるだけでなく、
乗ったレールそのものにも大きな負担を齎すことになる。
であれば降りてもらうしかないだろう。
それがすべての関係者が穏やかに暮らせる方法なのだから。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
生業を心から愉しむことができなくなったら、
それは生活原資を得る為の単なる労働というものだ。
生業なら明確な目的や夢が存在しているはずだ。
逆に労働には目的や夢などは一切不要である。
何故ならその行為は単に生活する為の手段だから。
目的に生きるのか手段に生きるのか、
問われても答える必要はない。
覚悟と姿勢を観れば誰の目にも一目瞭然だから。
守るべき人がいると言うなら手段に訴えている間は守れない。
目的意識を強く持って愉しんで生業事をするしかない。
それが組織利益向上に繋がり自身へも利益還元されるからだ。
心身をおかしくしてまで嫌々労働している哀れな姿を見て、
これで生活できると喜ぶ家族もいないだろう。
それでも自分は守るべき人を守っていると自負するなら、
それは愛ではなくて偽善に満ちた虚偽の満足感という代物でしかない。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。