嫌われたらどうしようとか。
未熟に見られたらどうしようとか。
そんな思考も回避する言動も全てが意味の無いものである。
何故なら周囲には全てが見抜かれているのだから。
それよりも嫌われてもいいから気持はストレートに伝えることだ。
心配を余所に決して深刻な状況にはならない。
変に気を回し妙な気遣いをするから余計に面倒なことになる。
人間関係とは極めてシンプルな思考によって良好さを維持できる。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
人間とは実に自身に都合良く考える生命体である。
良い状況であれば自分の能力と運を自惚れし、
悪い状況であれば世間や他者が悪いと言い訳する。
ここでよく考えてみよう。
今の状況は一人で作り上げたものなのだろうか。
良いことも悪いことも様々な人に影響され、
そして自分で選択してきた結果である。
良いときはきっかけをくれた人に感謝し、
悪いときは自分の未熟さと愚かさを反省する。
これができないうちは低位でジタバタするだけだ。
勝者と敗者を分けるのは思考と行動の差でしかない。
「今の自分にOK」などという、
根拠のない自己擁護が他者の評価とのギャップを生む。
世間は自分が思っているほど良い評価を下してはいない。
自身がそうであるように世間の他者評価は一様に厳しい。
これに早期に気付くべきである。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
繁栄はいつまでも続かないものだ。
国も企業も人もまた然り。
賢者は潤っている間に次の手を打っておく。
一発屋で終わるのか安定を維持できるかはこの事前準備次第。
繁栄状況に胡坐をかいて次の準備を怠る者は、
我が世の春を迎えても刹那なワンシーズンで終わるだろう。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
時間とは人の心を変えながら流れていくもの。
捨てる神あれば拾う神あり。
惨めな離別もあれば嬉しい出会いもある。
罵倒されるときもあれば絶賛されるときもある。
時間とは人の価値観を変えながら流れていく。
流れる時間を肌で感じ流れに抗わず従うことだ。
そして流れと共に変わっていく景色を大いに愉しむことだ。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
私は多くの人と喜ぶタイミングが違うようだ。
大商談が決まったときではなく、
全ての業務が完了して入金を確認したとき。
事業に必須な人材を雇用できたときではなく、
その人と思ったように事業展開できたとき。
欲しかったものが手に入ったときではなく、
身内に欲しかったものをプレゼントできたとき。
10人10色の喜び方があってよいと思う。
ただ素直に喜べる状況というのは平和な状況だからである。
実はその状況が一番喜ばしく思う。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。