自身の周辺で発生するトラブルの件数は、
関係している人の乗数に比例しているという。
1人なら1だが2人なら4となり10人なら100となる。
目的も無く付き合う人との意味の無い腐れ縁は、
何をしても有益なものを生むことはない。
もっともトラブルに巻き込まれることで、
生きている証を欲しているのであれば話しは別であるが、
有益な人を遠ざけ孤独感を常に味わうことになる。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
「馬の耳に念仏」とは実に上手く言い表した言葉である。
ありがたい教えも意味が解らない人には雑音でしかない。
思いやりの行為に思いやりの言葉。
気持ちが伝わらなければ互いに無意味な苦痛を味わうだけだ。
教えを請うなら他者の言葉を素直に聴ける耳を持て。
それに応えられる心を鍛えて覚悟を決めろ。
覚悟が無いなら教える側も教えられる側も傷つくだけだ。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
意識は確実に思考に強い影響を与える。
序列意識に肩書き意識、
性別意識に能力意識。
過剰な意識は確実に判断と行動を狂わせる。
勝者は常に相手に意識させるように誘導し、
敗者は常にその意識によって翻弄させられる。
相手を強く意識した方が確実に立場が弱くなる。
競うまでもなくその時点で既に負けている。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
文章や他者の話しの内容を正確に理解し、
考えた事を正確に文章化できる能力とされるリテラシー。
調査によると日本人の30%以上が欠如しているという。
でも世界的にみると日本人は優秀なのだそうだ。
トラブルの多くがリテラシーの欠如から起こる。
相手の意思や気持が理解できないから。
自分の気持ちや考えを正確に伝えられないから。
かといってそれで責任を回避できるわけでもない。
自身のリテラシー欠如を何かによって気付いたなら、
その個性を受け入れ自身と真摯に向き合い、
不必要に第三者との関りを持たないように生きることだ。
それなら自身も周囲も平和を維持できるのだろう。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
何かを始めようとするときの動機。
この動機に美学などは一切存在しない。
つまり動機が不純であろうが何ら問題はない。
重要なのは始める覚悟とその後の行動だけである。
動機が例え立派でも動かなければ何も始まらない。
思い通りに物事を動かすのは自身の行動だけだ。
綺麗な言葉を並べたてたところで誰も信用しない。
人の心が動くのは姿勢と結果を確認してからである。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。