最近になって気付いた事がある。
それは自分に合っている食べ物は飽きないということだ。
こういうものはいつ食べても美味しいと感じる。
身体は素直に自分に必要な栄養素を欲している。
それを素直に食べるのが健康の秘訣だと思う。
欲しないものを食べても不味いだけ。
健康に良いからと不味く感じるものを食べる行為は、
逆に身体に負担をかけているのではないかとさえ思う。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
時化(しけ)どきの大波。
波に抗う船は転覆し従う船は難なく乗り切れる。
自然の流れに抗えば益々状況は悪くなる。
従えば何事も無かったかのように平穏に戻る。
そもそも流れに従えないときは波に乗らないことだ。
抗いながら乗ったところで大怪我をして退散あるのみだ。
乗るなら流れに素直に従う覚悟を持つことが必須条件。
流れのなかで起こる事象の全てを受け入れられるからだ。
他者が敷いたレールに「乗る」とはこういうことだ。
自分の意思を優先する者に他者のレールに乗る資格はない。
他者のレールに乗る者は常に覚悟の程を問われている。
中途半端な覚悟の者は同乗者に迷惑をかけるだけでなく、
乗ったレールそのものにも大きな負担を齎すことになる。
であれば降りてもらうしかないだろう。
それがすべての関係者が穏やかに暮らせる方法なのだから。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
生業を心から愉しむことができなくなったら、
それは生活原資を得る為の単なる労働というものだ。
生業なら明確な目的や夢が存在しているはずだ。
逆に労働には目的や夢などは一切不要である。
何故ならその行為は単に生活する為の手段だから。
目的に生きるのか手段に生きるのか、
問われても答える必要はない。
覚悟と姿勢を観れば誰の目にも一目瞭然だから。
守るべき人がいると言うなら手段に訴えている間は守れない。
目的意識を強く持って愉しんで生業事をするしかない。
それが組織利益向上に繋がり自身へも利益還元されるからだ。
心身をおかしくしてまで嫌々労働している哀れな姿を見て、
これで生活できると喜ぶ家族もいないだろう。
それでも自分は守るべき人を守っていると自負するなら、
それは愛ではなくて偽善に満ちた虚偽の満足感という代物でしかない。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
セルフネグレクトという言葉が使われて久しい。
自己管理しなくてはならないものを放棄する精神疾患の一つである。
食事は適当なジャンクフードで済まし、
掃除や洗濯をせずに家の中はゴミと洗濯物の山となる。
電気やガスは止められてから未払いに気付く。
それでも自分自身だけのことだったらまだ看過もできるが、
これがビジネスに絡んでくると看過することは一切できない。
そもそもセルフネグレクトな者は他者とビジネスしてはいけない。
自己責任で好きなように生きるべきである。
自己管理できない人が他者と関るなどもっての外である。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
「一病息災」という格言がある。
健康な人よりも一つくらいの持病を抱えている人の方が、
日頃から健康に気を配り長生きするという教えである。
40歳を越えた辺りから元気な日が徐々に少なくなってくる。
毎日どこかが痛んだりだるさが残ったりする。
これが50歳を越えた辺りから二つ三つと年々増えてくる。
ところが還暦過ぎた辺りから徐々に元気を取り戻すようになる。
それを信じて今が辛くとも健康を意識して暮らすことだ。
身体だけではなく偏った思考も同じように若返りするようだ。
「長生きすれば必ず善い事が待っている」
健康オタクで有名な徳川家康が日々呟いた言葉である。
根拠を示した人の言葉は実に説得性があると思う。
心身ともに自分自身と真摯に向き合って生きることだ。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。