一日は「ついたち」と読み語源は「月立ち」である。
つまり新たな月の始まりを告げる重要な日ということだ。
この日をどんな気持ちで迎えるかで一月の流れが決まる。
ワクワク感いっぱいで迎えるのか、
それとも不安感いっぱいで迎えるのか、
何も考えないで普段どおりに迎えるのかは自由である。
ただしどうせ迎えるなら明るい未来を夢見て迎えたいと思う。
「一日」を迎えるにあたって少しは意識したほうがよい。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
「へぇー!」とか「なるほど!」という返し。
大声での高笑いにオーバーな頷き。
これらはみな共感性人間共通の反応である。
共感性とは相手に意向を合わせる表現で、
信頼していることをリアクションで示す行為である。
ただこれが通用するのは若いうちだけである。
ある程度の歳になってもこれをやると、
媚びへつらっていると思われるのがオチ。
弱い犬がしっぽを振って餌を乞うが如し。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
眠れない夜は無理して眠らなくてもよい。
きっと潜在意識の中で何かを考えたいのだから。
食べたくないときは食べなくてもよい。
きっと消化器官が休みたいと促しているのだから。
気が進まない仕事は請けなくてもよい。
きっと何か悪しき前兆を察知しているのだから。
潜在意識は理由もなく表面意識に語りかけることはない。
世の中に「しなくてはならない」理由があるなら、
「しないほうがよい」という理屈があって自然である。
自分に無理しないとはこういうことなのだ。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
「十年一昔」とはよく言ったものだ。
昭和の時代に十年なら現代では一年である。
過去得てきた取るに足らない廃れた知識に囚われ、
周囲が無知だと豪語し孤軍奮闘する輩が増えてきた。
思ったように生きられないのは言わずもがである。
世の中とは常に変化しているものだ。
その変化に合わせて自身を変化させるのが賢者。
世の中を自分に合わせようと抗うのが愚者か自称革命家。
革命家とは多くの支持者がいて初めて称えられる存在である。
反抗者の多くは孤独な愚者だと理解することである。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
あの人は成功するかもしれない。
ただし自分を正確に理解することと、
成功するための選択を間違わなければの話しではあるが。
ではその人は本物の成功者なのか偽物の成功者なのだろうか?
本物を知る人がその人を本物だと言うのであれば、
本物であろうが偽物であろうがその人は本物なのである。
偽物しか知らない人が本物だと言うのであれば、
本物であろうが偽物であろうがその人は偽物なのである。
結局のところは本物か偽物かは誰が評価するのかによる。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。