なんでも受けた理不尽を訴える時代になった。
平等意識という点では善い時代とも言えなくはない。
ここで訴訟を考える人に意識してほしいことがある。
それはどのような訴訟においても、
勝訴しなければ今度は逆に訴えられるということだ。
名誉棄損に損害賠償の突風が巻き起こる。
訴えるなら一時的な感情からではなく、
冷静なる正義感を以って充分な準備を行い、
少なくても確実な証拠と証人はしっかり押さえることだ。
訴える側にも大きなリスクがあることを肝に銘じること。
そして一時の感情によって無関係の家族を巻き込むことなかれ。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
自分の行動に対して理由付けを先に話すこと、
これを「予防線を張る」と言う。
今の行動を後にその正当性を示すための予防線。
これは決して他者に対してではなく、
自分の後ろめたさを隠すための事前の言い訳に過ぎない。
予防線を張っている間は成功しない。
何故なら自分を何時までも甘やかせているから。
自身に厳しく他者には甘くできて成功者への道が開かれる。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
時間が無い時ほど時間を使う行為を優先する。
お金が無い時ほどお金を使う行為を優先する。
その結果において無かった時間が生まれ、
お金も入ってくるようになる。
矛盾しているようで極めて自然の摂理通りである。
時間を使う行為はやることを先にやるから時間が生まれ、
お金を使えば経済循環によってお金が回り戻ってくる。
これを継続的に行っていれば、
何時かは余裕有る人生が形成されるようになる。
一時的なデグレードに我慢できずに止めてしまう。
これが悪環境を繰り返す最大の原因なのである。
自分に厳しくデグレードに耐え悪環境をぶち破った瞬間に、
一気に明るい未来が開けゴールが見えてくる。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
「得した、損した」ってお金の損得を気にする人。
気にしなければいけないのはお金ではなく信用。
お金で損しても信用を得れば大きな未来の利益となる。
逆にお金で得しても信用を失えば大きな未来の損失となる。
お金の損得で物事を考える人は成功しない。
本物の信用はお金では絶対に買えない代物なのだから。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
最近は忘れ物が酷くなる一方である。
カードケースや携帯電話の置き忘れは日常茶飯事である。
でも不思議といつも手元に戻ってくる。
縁の有る人や物は一旦失っても必ず戻ってくる。
逆に縁が無ければ何をしても二度と戻ってはこない。
失ったものは最初から自分とは縁が無いもので、
むしろ持っていないほうが良かったと思うことだ。
そう覚悟を決めて生きると妙に楽になる。
これが失う怖さを克服する「おまじない」なのかもしれない。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。