「参った!」と唸らせる料理はどれも実にシンプルである。
手の込んだ料理は確かに美味しいが感動がない。
本物の調理は素朴さの中にも確かな拘りを感じる。
素材や隠し味の個性をしっかり引き出している。
素材を知り尽くしてなければできない匠の技である。
シンプルさの中に経験が満ち溢れている。
調味料や添え物での誤魔化しは誰にでもできること。
本物のプロは余計なことを一切しない。
調理にも謙虚に人間味が素直に出る。
これが「味の向こう側」という感覚である。
この感覚は全ての物事に対しても言えることである。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
カオスをさまよう粒子は、
際立つエネルギー体に渦巻き状に集まり始める。
引き寄せられた粒子は激しくぶつかり膨大な熱と光を放つ。
その熱によって集まった粒子は溶解し火の球を形成する。
最初は小さな塊も徐々に質量を増やし、
更に大きな物体を引き寄せはじめる。
これを繰り返すことによって星が完成されていく。
カオスの空間から新たなる時空の歴史が始まる瞬間である。
その瞬間に立ち会えるのは極一握りの人だけである。
そしてこの瞬間に立ち会えた者だけが、
新たなるとてつもなく大きな恩恵を受けることができる。
それが新しきエコシステム誕生の瞬間であり、
黎明期という陰陽二極分化が極まる時空が広がる瞬間でもある。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
情報が欲しいときには情報発信し、
情報遮断したいときには情報を一切出さなければよい。
同様に何かを得たい時には同等のものを与えることだ。
つまり欲しいものがあるなら先ずは他者を優先することだ。
与えずに与えられたもので利益に繋がることはない。
行動無くして自身の都合に合わせる者もいない。
相手の立場になって考えれば極めて容易い理屈である。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
嫌われたらどうしようとか。
未熟に見られたらどうしようとか。
そんな思考も回避する言動も全てが意味の無いものである。
何故なら周囲には全てが見抜かれているのだから。
それよりも嫌われてもいいから気持はストレートに伝えることだ。
心配を余所に決して深刻な状況にはならない。
変に気を回し妙な気遣いをするから余計に面倒なことになる。
人間関係とは極めてシンプルな思考によって良好さを維持できる。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
人間とは実に自身に都合良く考える生命体である。
良い状況であれば自分の能力と運を自惚れし、
悪い状況であれば世間や他者が悪いと言い訳する。
ここでよく考えてみよう。
今の状況は一人で作り上げたものなのだろうか。
良いことも悪いことも様々な人に影響され、
そして自分で選択してきた結果である。
良いときはきっかけをくれた人に感謝し、
悪いときは自分の未熟さと愚かさを反省する。
これができないうちは低位でジタバタするだけだ。
勝者と敗者を分けるのは思考と行動の差でしかない。
「今の自分にOK」などという、
根拠のない自己擁護が他者の評価とのギャップを生む。
世間は自分が思っているほど良い評価を下してはいない。
自身がそうであるように世間の他者評価は一様に厳しい。
これに早期に気付くべきである。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。