想像は過去の経験によって確実に世界観が変わる。
経験が多ければ想像の世界感も大きく広がる。
他者の気持に鈍感な人は、
確実に経験不足による想像力が欠如しているからだ。
逆にしなくてもよい経験を多くしている人はどうだろう。
この場合はしないほうがよい余計な想像をしてしまい、
これによって多くのチャンスを逃すことになる。
不正確な想像とは思い込みという代物である。
現在の自分の思考も置かれた立場も、
全ては過去からの原因による結果が現実化しているに過ぎない。
結局のところ想像の中身もその結果において行われている。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
「忖度してあえて言わなかった」などと言い訳する輩。
それは忖度なのではなく言う勇気が無かっただけだ。
言わなければいけないことは怒られようがはっきり言う、
言わなくても良いことは感情的になっても言わない。
真の忖度とはそういうものだ。
少なくても自分の弱さを隠すための言葉ではない。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
人生の底を見極めるのは実に難しい。
経験豊富な人にとっても困難を極める。
経験則だけでは見極めることのできない代物である。
ただ一つ言えることがある。
底を見極められないことなど大した問題ではない。
重要なのはどんな人も必ず底を経験しているという事実だ。
そして永遠に落ち続ける底無し人生は存在しないということだ。
谷深ければ山高しで底が深ければ高嶺が待っている。
悪いことはまとめて起こる方がよい。
底さえ確認できれば後は這い上がればよいだけだから。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
自身に向けられた責任を回避しようと必死になる保身人間。
何時の時代も見るに耐えられない気持になる。
彼らは大きな過ちと勘違いをしている。
自身や家族を守っているようで全然守れていない。
その証拠に逃げてばかりだから最後には法的手段に訴えられる。
本当に家族を大事にしている人は結果責任を潔く受け入れる人である。
逃げては「家族を大事にする」と言うが独善的で極めて虚しい。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
ときどき「何故このタイミング?」ということがある。
悪いことが起こると何者かが悪い流れを作ったと考える。
良いことが起こると自分で良い流れを作ったと考える。
悪いことは他者のせいにして良いことは自分の力だと思考する。
これこそが自分勝手な思考の極みである。
起きている事実はたった一つだけである。
自身の周囲に起こるべきことが起きているだけである。
起こる事象は全て陰陽隣り合わせで起きている。
自身がどの視点でどう観るかで善し悪しが決まってくるだけの話である。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。