せっかく作ってあげた料理。
何時までも食べずに放置しているなら無言で捨てる。
せっかく教えてあげた情報。
何時までもやらずに放置しているなら二度と教えない。
喜んでほしいから気持よく与える。
でも無視されたり放置されれば極めて不愉快になる。
お節介だと思われていると考え気持が萎える。
だからその人には二度と与えることはしない。
波風を立てたくないしストレスを抱えたくないから。
与えてもらったなら好む好まないなどどうでもよい。
取りあえず「ありがとうございます」の一言が肝要である。
それからそれをどうするかを考えればよい。
他者の気持や愛情に鈍感なのにも程がある。
他者の気持が理解できない人とは、
何をやっても一緒に愉しめることなど何も無い。
他者に干渉されたくないと思うなら何も貰わないことだ。
自身の能力とお金を使って孤軍奮闘で稼げばよい。
それなら誰も干渉しないし余計なものを与えることも無い。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
気の流れや人が発するオーラ。
未来に起こる事象にトレンドカーブ。
この世には目では見ることができない確かな力が存在する。
私はこれらを子供の頃から敏感に感受してしまう。
でもまったくそれを感受できない人がいることには驚く。
たとえ感受できても放置しているなら同じことだ。
見えない力を感じる人は、
自ら修正することも作り出すことも可能である。
これを信じる人は守られ信じない人は淘汰される。
これもまた見えない力の存在の証明でもある。
見えない力の存在を甘く考えない方がよいと思う。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
一日は「ついたち」と読み語源は「月立ち」である。
つまり新たな月の始まりを告げる重要な日ということだ。
この日をどんな気持ちで迎えるかで一月の流れが決まる。
ワクワク感いっぱいで迎えるのか、
それとも不安感いっぱいで迎えるのか、
何も考えないで普段どおりに迎えるのかは自由である。
ただしどうせ迎えるなら明るい未来を夢見て迎えたいと思う。
「一日」を迎えるにあたって少しは意識したほうがよい。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
「へぇー!」とか「なるほど!」という返し。
大声での高笑いにオーバーな頷き。
これらはみな共感性人間共通の反応である。
共感性とは相手に意向を合わせる表現で、
信頼していることをリアクションで示す行為である。
ただこれが通用するのは若いうちだけである。
ある程度の歳になってもこれをやると、
媚びへつらっていると思われるのがオチ。
弱い犬がしっぽを振って餌を乞うが如し。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
眠れない夜は無理して眠らなくてもよい。
きっと潜在意識の中で何かを考えたいのだから。
食べたくないときは食べなくてもよい。
きっと消化器官が休みたいと促しているのだから。
気が進まない仕事は請けなくてもよい。
きっと何か悪しき前兆を察知しているのだから。
潜在意識は理由もなく表面意識に語りかけることはない。
世の中に「しなくてはならない」理由があるなら、
「しないほうがよい」という理屈があって自然である。
自分に無理しないとはこういうことなのだ。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。