不思議なことに植物も動物も適当に世話するとよく育つ。
何故か大事に育てようと必死に世話をすると、
慎重になり過ぎるのか枯らしたり病気にさせてしまう。
「過ぎるは足りぬと同じこと」とはよく言ったものだ。
これは自分自身に対しても同じではないだろうか?
プライドに譲れない拘り、
大事にし過ぎて本当に大切なものを失ってないだろうか。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
失敗は成功することで失敗にはならない。
最終的に勝てば過去の負けは負けにはならない。
過去の失敗や負けは成功や勝利の後には、
糧にも勲章にも成りうるということだ。
ただし一時の結果は常に潔く受け入れることが肝要。
結局は全てがある時点での結果次第ということだ。
「優勝するには負け試合をどれだけ正確に読めるかにある」、
これはプロ野球常勝監督の有名な言葉である。
失敗や負けを先に読んで、
最終的に成功や勝利に繋げられる人はほとんどいない。
普通の人と同じ事をしないから成功者になれる。
そう考えると成功思考とは何かが明確に理解できる。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
還暦過ぎても意固地な人は本当に厄介な存在である。
自身の考えとやり方が全てであって、
他者のどんな優れた能力も認めようとしないのだから。
他者の悪いところばかりを指摘できても、
自身の愚かな思考や行動を自己評価し省みることができない。
自身の僅かな稼ぎを自慢げに話しができても、
他者の大商談の利益を認めようとはしない。
いったい彼らはどんな生き方をしてきたのだろうか?
還暦過ぎたら生き方を悔い改めることは極めて困難である。
こうして老後人生の二極分化が決定し確立されるのだろう。
どんな人生を送るかは人それぞれでよいと思う。
ただ意固地な人生に家族を巻き込むのは如何なものだろうか。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
流暢に自分の考えを話す人がいる。
ズバリ言ってそういう人はだいたいが信用ならない人である。
思考はしゃべる速さの数十倍の速さで処理される。
それを的確な言葉で表現しようとしたら、
何から話していいのか普通は言葉に出せないのが当たり前である。
それを流暢に話しができるということは、
思考しながらではなく記憶している事を話しているだけである。
おそらく本や他者から得た知識を披露しているのだろう。
もしくは誰に対しても同じことを繰り返して話しているかである。
本音で語り合うべきときにペラペラやられたら正直引いてしまう。
下手でもよい感情的になってもよい、
自分の本音を正直に伝えられる人が最も信用できる人だ。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
何を選ぶのも実行するのも全てにおいてタイミングが最重要。
自分の決断や実行タイミングを優先する人は成功しない。
何故なら常に相手や世の中の状況が変わっているからだ。
往々にして上手くいかない人は常に絶好のチャンスを逃す。
話すタイミングに決断するタイミングに動くタイミング、
全てにおいてのタイミングが極めて不正解だったという結果である。
そしてこの要因が自分優先思考に在ることを理解していない。
周囲の人は自分の意思でどうにでもできるとでも思っているのだろうか。
成功する人は常に自分は優先順位の最下位に置いている。
だから世の中や相手の動きに素早く順応できる。
自分が何をしたいかなど信頼関係においては意味が無い。
相手が何時までにどうしたいかが最優先されるべき事項である。
ビジネスもプライベートも上手くいく人は常に他者優先思考である。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。