思ったように事が運ばないときがある。
こんなときは悲観せず思考を変えて別の方法を探ることだ。
全ての事象は一過性のものであって全てではない。
また一つの事象が永遠に続くこともない。
善い状況は一瞬にして悪い状況に変化し、
悪い状況は一瞬にして善い状況に変化する。
思考を変えて広い視野に立って大局を観れば、
悪い状況は善い状況への兆候であることが実に多い。
一つの事象だけを見て悲観することなかれ。
一つの事象だけを見て安心することなかれ。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
一見は無計画に見える「成り行きまかせ」という行動。
しかしこれほど実経験がものを言う戦略戦術はない。
成功者は「成り行きまかせ」を無意識に行っている。
計画してもその通りに運ぶ保障は何一つない。
ならば最初から起こる事象の成り行きに応じて、
臨機応変に判断し俊敏に動くしかない。
これが完璧にできるのがビジネスと生き方の天才。
ジャズの歴史に刻まれたアドリブの天才による名演奏、
周囲に自分が合わせ周囲が自分に合わせる。
その時々で息を飲むほどの名演奏を見事に繰り広げる。
成功者は全てをアドリブで思考し行動できる人。
見えているのは明確なゴールと理想とするビジョンだけ。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
聞かれないと一切の報告も無し。
問われると今度は言い訳に始終。
頼んだ事はいつまでも後回しにして結局放置。
強引にやらせたら中途半端で完璧とは程遠い。
アドバイスしても理由をつけては何も行おうとしない。
自分の不始末なのに他者事のように傍観するだけ。
手抜き作業の末に初歩的なミスを連発。
お金しか見ていない自己都合の塊のような人。
本人は自分なりに必死にやっているのかもしれない。
でも結果的には手抜きと狡さの極みとして評価される。
それでも自分は有能で完璧にできる人だと思い込んでいる。
ある意味では究極の幸福思考の達人なのだろう。
どんな状況に陥っても本人の中ではお金を得て幸せなのだから。
ただ老後にやってくる孤独感は10倍返しになることを覚悟すべし。
そうそう世の中は自己都合を長年看過するほど甘くはない。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
二十代は若さだけで何も問われるものはない。
三十代は知識や能力を問われるようになる。
四十代は経験や実績を問われるようになる。
五十代は有益な人脈やノウハウを問われるようになる。
還暦越えれば再び問われるものは何もない。
関わる人から長生きして欲しいと思われる存在感だけだ。
それまでに与えてきた者が与えられる立場になる。
還暦までに他者に与えてきたことに利子が付いて戻ってくる。
これまでの生き方が正しかったのかが解る瞬間である。
貰うだけで与えてこなかった人は、
他者に与え続ける余生を強いられるようになる。
迷惑をかけてきた人は厄介事に追われるようになる。
楽してきた人は苦労の連続が押し寄せる。
今も昔も押し並べて人の一生は公平にできている。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
タイミングとは極めて重要な事項である。
信頼関係に大きな影響を及ぼす要因でもある。
今ここで必要だという時に限って外出で不在。
至急やって欲しいときに緊急事で手いっぱい。
飲みに誘うと風邪をこじらせ断られる。
メールしても返信が無く電話は常にすれ違い。
こんなことが連発すると自然に心が離れていく。
同じ次元の時空間を共有している気がしない。
まさに別次元に住んでいる人とはこういうことだ。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。