「目で見るを見(けん)と言い、心で見るを観(かん)と言う」
柳生新陰流の地位を確立した柳生宗矩は、剣術家にして戦略家としても名を馳せます。
徳川幕府で最初の大目付役になった剣術家であり、後に政治にも参加し一族から将軍を擁立するまでになります。
宗矩のこの言葉は、兵法を学ぶ者に実に相応しい言葉です。
兵法三十六計に「無中生有」という計が有り、「無いと思えば有る、有ると思えば無い、しかし実際にいざと言うとき有ればそれは真実となる」というものです。
つまりは、「見えるものだけを見て判断するなかれ、心の目で観て思考し真実を見つけることが肝要である」と言うことです。
多くの失敗は、目で見える物だけを見て追っているから、表面的な細かなことに囚われて物事の根幹を見落としてしまうのです。
今、自分に本当に大事な人は誰なのか、小さな私事を大事にして自身の成功にとって本当に重要な人を粗末にしていないでしょうか?
何故、その人は自分に声をかけてくれたのだろうか?
人は意味も理由も無い事はしないものです、そこには必ず意味が有るのです。
正しきを得るためにはその人の言葉や行動を見て判断するのではなく、目に見えない起きている事実だけを心で感じて判断することです。
他者への疑いは自分が信じられないから他者も信じられない、これが「心の鏡」という代物です。
見えないところに真実が有り、その真実を見極められる人が成功者となれるのです。
「何故、あの人なの?」
「何故、今ではないの?」
その疑問の解はその人が観ているのは今ではなく、5年後10年後の姿とビジョンを観ているからに他なりません。
「天下最も多きは人也、最も少なきも人也」
戦国の世に「黒田官兵衛」として、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と三大武将に仕えた戦国武将一の智将と称された黒田考高の、天下一の智将らしいこの一言、何とも言えない深いものがあります。
「天下に人は沢山いるが、これはという有能な人材は実に少ない」
現在も「人は余るほどいるが、逸材は足りない」とよく言われます。
経営・財務・法務・営業・技術・企画、その道のプロを如何に確保するか、これは大小に関係なく企業の永遠のテーマでもあります。
「城は人なり」、現在で言えば「企業は人なり」、たった一人の人材によって企業体質が一変する事はよくあることです。
成功する人は自分一人で無理して頑張らない、自分に無いものは素直に他者に頼る事を忘れない、その道のプロが行うのは最も確実且つ最もリスクが少ない事を知っているから。
その空いた時間を事業推進に向けた方が、結果的にコストはかかってもそれを上回る利益が齎されることになるのです。
そしてこの方法が、最も好結果を出すのが事業推進スピードと事業精度です。
つまり、「事業推進に係る費用は時間と正確性を買っている」、こういうサンクコスト思考ができる人が成功者になれるのです。
上手くいってない人ほどなんでも自分でやろうとします、だから余計な事に時間を割かれては有益な事がおろそかになる、経済循環も起こることもないしパートナーを得ることもなく、結果上手くいかないのです。
「争いは欲より起こるもの。 欲を捨て義を守るなら不和などは起こりませぬ」
毛利元就の三男であり、天下分け目の際に君臨した小早川隆景のこの一言。
毛利元就は3人の息子をそれぞれ一城の主に成長させました、そしてこの兄弟の絆がその後の大きな毛利家発展に繋がりました。
隆景は小早川家に養子に出されて、その後小早川、次男の吉川と合わせ「毛利に2つの大きな河有り」と隣国武将に言わしめさせたのです。
平穏な当たり前の暮らしにこそ、確実なる生長と幸福がもたらされます。
儲けたい、生長させたいという欲が有れば志が野心と化します。
野心を持っては、生長と幸福という成功は何時まで経っても得られることはありません。
そこに有るのは、争いの山(醜い人間関係)となります。
真のライバルとは互いに義を守り切磋琢磨するものです、そこには互いの成長と成功が約束されます。
1980年代、多くの新鋭ITベンチャーがそうして互いに成長しIT業界を形成させました、その後多くの上場企業を輩出させていきました。
成功者は決して争う事をしません、共存共栄にこそ互いの繁栄が約束されるのです。
「大名たる我はあの鶴の身持ちと変わらぬ。 我らが昼夜の心遣いを察せよ、汝ら家臣は鶴を羨まず雀の楽しみを楽しめ」
織田信長の家臣で、文武共に優れ織田四天王の一角と周辺諸国の武将に言わしめた滝川一益の一言。
滝川一益は武勇伝の数々を残すも、出生に始まり謎が多い人物としても知られています。
鶴は大きくて美しい鳥かもしれませんが目立つので常に敵の標的となり、何時も周囲に気を配り昼夜問わず周囲を警戒していなければなりません。
それに対して、雀は小さくかよわい鳥であるが周囲を気にすることなく常に自由な振る舞いをしています。
「鶴は鶴の雀は雀の特徴がある、他者を羨むことなく与えられし立場を全うせよ」ということです。
例えば鉄は鉄としての、アルミはアルミとしての特徴を持っています。
メッキを施し、その特徴を消してしまえば本来の良さが出ないばかりか間違った登用をされてしまいます。
成功する人は「人はそれぞれに役割を持って生まれてくるもの、他者を真似たり他者の行動に踊らされることなく、自らの使命を知って自分に相応しく自然に従うが最も幸福である」ことを常に念頭に置いて思考しているのです。
「いにしえの道を聞きても唱えても、我が行いせずば甲斐なし」
日新斎(じっしんさい)の号で知られる島津忠良の、「日新公いろは歌」より学びの姿勢を示したこの一言。
忠良は幼少のころ「朱子新註四書」を教えられ、また禅を修め神道の奥儀を究め、儒・神・仏の三教を融合して新たに学問を開きました、これを日学と称されます。
戦国の世に在りながら、学びに学び抜いた智将の根拠ある一言は実に深いものがあります。
多くの優れた教訓や学びを聞いても、また唱えたとしても、自分自身が経験してみなければ何も身に付きません。
孔子も「一つを学んだら機会を得て試してみる」と学びの姿勢を示しています。
知識を得ても体得したことにはなりません、知識は経験によって知恵と代わり自身のものと成り得るのです。
失敗も一つの学びです、どんな事も経験を積めば何れは徳となります。
失敗など恐るに足りません、人生で恐れるべきことは辛いことや嫌なことから逃げ出す自身の弱さに失望することです。