簡単な事を知識を駆使して説明するだけで、
自身では何も創出しようとしない偽りの事業家がいる。
本物の事業家とは極めて難解な事を、
誰にも解る簡単な言葉で説明し、
他に類を見ないものをあっという間に創出する人を言う。
要は言葉ではなく結果が全てである。
言葉や外見で評価する人もまた本物かどうか疑わしい。
本物の事業家であれば結果を一目見るだけで、
自身の経験に基づきすべてを一瞬で完璧に理解できる。
※耳順(じじゅん)とは、孔子論語の「六十にして人の話しを素直に聞けるようになった」という節を起源とする60歳代の呼び名である。
冬になれば夏の暑さが恋しくなる。
夜になれば太陽のありがたさを改めて知る。
目の前からいなくなって、
初めてその存在の大きさに気づく。
自分の周りに在るものすべての存在に、
「ありがとう!」と感謝することだ。
失う怖さは失ってみないと解らない。
人も物も常に在るのが当たり前だと慢心することなかれ。
※耳順(じじゅん)とは、孔子論語の「六十にして人の話しを素直に聞けるようになった」という節を起源とする60歳代の呼び名である。
夢とはいつかは覚めるのが常である。
人はよく「夢は必ず叶う」と口にする。
人より数倍の努力をすれば実現するのかもしれない。
ただし私欲の塊なら本当の「夢」で終わる。
確かに「夢」は人に勇気を与え、
萎れた心が楽になるかもしれない。
ただ努力を怠った「夢」は必ず「夢」で終わる。
夢を叶えたいのなら夢に向かって努力するしかない。
常日頃から夢に相応しい自分磨きをすることだ。
※耳順(じじゅん)とは、孔子論語の「六十にして人の話しを素直に聞けるようになった」という節を起源とする60歳代の呼び名である。
たかがブログ、されどブログ。
文章とは恐ろしくも書き手の人間性が露見する。
自身を誤魔化そうとしても、
誤魔化して生きている人だと解ってしまう。
善い人を演じても偽善的な人だと解ってしまう。
その人のリテラシーが見事に反映され、
例えデキル人をアピールしたとしても、
文章で大いに引かれてしまう。
リテラシーが表像するブログ、
自身の全てを曝け出す覚悟が問われる。
口語表現は誤魔化しが効いても、
文語表現は一切の誤魔化しは効かない。
※耳順(じじゅん)とは、孔子論語の「六十にして人の話しを素直に聞けるようになった」という節を起源とする60歳代の呼び名である。
意味の無い1万人の人脈は単なる知人に過ぎない。
人脈も金種も持っている1人を得れば全てが解決する。
多数の人を得ようと思えばそれに合わせて無理をする。
自分に無理して得たものは本物ではない。
本物ではないから何の助けにもならない。
たった1人で良いから有益な人と信頼関係を築くことだ。
自分に自信が在る人は数を欲しがらない。
自信がない人ほど数に拘る、
誇るものが無いからに他ならない。
物事は数ではなくあくまでも質の問題である。
数にこそ価値が有るのだと言うなら、
たった1人の有益な人は、
豊富な人脈と資金を一瞬にして用意してくれるだろう。
※耳順(じじゅん)とは、孔子論語の「六十にして人の話しを素直に聞けるようになった」という節を起源とする60歳代の呼び名である。