「十年一昔」とはよく言ったものだ。
昭和の時代に十年なら現代では一年である。
過去得てきた取るに足らない廃れた知識に囚われ、
周囲が無知だと豪語し孤軍奮闘する輩が増えてきた。
思ったように生きられないのは言わずもがである。
世の中とは常に変化しているものだ。
その変化に合わせて自身を変化させるのが賢者。
世の中を自分に合わせようと抗うのが愚者か自称革命家。
革命家とは多くの支持者がいて初めて称えられる存在である。
反抗者の多くは孤独な愚者だと理解することである。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
あの人は成功するかもしれない。
ただし自分を正確に理解することと、
成功するための選択を間違わなければの話しではあるが。
ではその人は本物の成功者なのか偽物の成功者なのだろうか?
本物を知る人がその人を本物だと言うのであれば、
本物であろうが偽物であろうがその人は本物なのである。
偽物しか知らない人が本物だと言うのであれば、
本物であろうが偽物であろうがその人は偽物なのである。
結局のところは本物か偽物かは誰が評価するのかによる。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
どうして他の方法を考えつかなかったのだろう。
そのときはそれが最良だと思ったから。
時が流れ過去の自分を冷静に客観視できるようになる。
良かったのか悪かったのか、
答えは今の状況が全てを物語っている。
今の状況とは過去の選択が表面化しているに過ぎない。
つまり未来を輝かしいものにしたいのであれば、
重要なのは今この瞬間の選択だということだ。
中途半端な選択は命取りになる。
「伸るか反るか」の二者択一で即決することだ。
最もやってはいけないこと。
それは予備や安全地帯を確保してからの選択である。
これは極めつけの覚悟の無い愚者がとる方法である。
心を一つに絞らずして何事も上手くいくわけがない。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
やるべきことを放置する「なおざり」。
やったかと思えば手抜きする「おざなり」。
言葉と意味は異なるが一様に「いい加減」だということだ。
「仕事が忙しくて」と言い訳する輩の共通した悪癖でもある。
都合の悪い事を後回しにしていては時間が無くて当たり前。
身に降りかかる災いは疎かにした履行の報復である。
やるべき事を引き延ばすほどに災いは大きく育っていく。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
熟成を身を以って体験すると何事も「待つ」意味を知る。
充分に熟成した食材を味わった瞬間に「待つ」喜びを知る。
どんな事に対しても熟成期間が極めて重要である。
中途半端な熟成期間で味わったところで美味しくはない。
また対象の物事によって熟成期間は大幅に異なる。
これを肌で感じられるのがその道のプロということだ。
多くの人は物事のみならず自分の熟成期間を知らない。
自己都合や思い込みで動くのは熟成していない証拠でもある。
未熟であるなら熟成するまで待てばよい。
ただし熟成は一歩間違えれば腐るリスクが伴う。
成功人生を歩みたいと願うのであれば、
自分を理解し熟成期間を的確に解る人に就けばよい。
熟成段階にいる間は全てをその人に任せるのが待つ姿勢。
自分勝手に動き回るから未熟のまま腐ってしまうのである。
食材も人もまた同様に。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。