何かで読んだり他者から聞いただけの手抜き知識。
いざという時には何の役にも立たない雑学と同じ。
大局を観れずにその場のにやっつけ仕事しかできない。
対して努力と経験で身につけた知識は身体が自然に反応する。
生きた経験からの学びは大局を捉える知恵となる。
何事にもゴールを目指した有益な策を繰り出せる。
小手先のやっつけ作業で誤魔化すからミスを連発する。
手抜いた報いは結果においても当然手抜きされる。
だから手抜いたやっつけ仕事には悪しき結果しか残らない。
手抜いた報いは必ず身辺に災いを齎すことになる。
因果応報や負の連鎖とはこういうことを指して言うのである。
本人に手抜いた自覚が無ければ更に罪は重い。
普通に生きているだけで迷惑を振りまく人だからだ。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
引き出しには決まった容量の物しか入らない。
新しい物を入れるときには何かを捨てなければならない。
常に整理整頓している人はいざという時も慌てない。
同じように人間関係も引き出しと同じで容量がある。
常に断捨離しては空きを確保しておけば安心だ。
理想の人と巡り会えたらすぐにも受け入れられるから。
ただ一つだけ空きを作ってはならないものがある。
それは心である。
安心や慢心した瞬間に隙ができる。
心に隙ができると必ず悪魔が忍び込んではささやく。
悩みや不満はある意味では重要な心の防御壁ということだ。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
理想郷というべく労せずして豊かな生活を送れる理想の世界。
ただ理想郷の確立には気の遠くなるような努力が不可欠だ。
汗水垂らしてひたすら理想を目指して数十年間頑張り続ける。
その者だけに与えられる極上のご褒美が理想郷である。
他者に頼るだけで自ら労せずして得られるわけがない。
理想郷は多くの人が空想で終わる儚い夢のまた夢の世界。
追えば遠のき謙虚にひたすら信じて待てば近づく代物。
安定を求めれば消え挑戦し続ければ具現化するもの。
理想郷の確立は一つの成功人生の証なのかもしれない。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
金融免許を取ると銀行はお金を貸してくれない。
だったら逆に資金を用意して貸金業をやればよい。
事業清算でまだ使える什器類を大量に廃棄しなくてはならない。
だったら古物商の免許を取得して販売すればよい。
大規模サイトを構築したが運用する予算が捻出できない。
だったらサイトごと事業譲渡して他社に任せればよい。
極めつけの特許が取れたが事業化する資金が無い。
だったら大企業との共同事業にすればよい。
飲食店の多店舗効率化を考えるも人材がいない。
だったらフランチャイザーになってオーナー募集すればよい。
現状計画で不都合な事実が発生したら、
逆転の発想で不都合な事実を都合よい事実に置換し、
現状以上に利益を上げる策を編み出すのが成功者思考だ。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
何だろうね?
僅かな手数料を惜しんでは時間を無駄にする人って。
何だろうね?
僅かな自尊心を頑なに死守しては信用を失う人って。
何だろうね?
僅かな気遣いもできずにチャンスを逃す人って。
何だろうね?
僅かな幸福感を大事にしては夢を諦める人って。
結局上手くいかない人は僅かなことに拘り、
僅かなものを大事にしては本命を逃している。
思考視野が極めて狭く思考距離が極めて短い。
だからどうしても独り善がりな今この瞬間の損得だけで思考する。
全てにおいて「局所に拘り大局を観ず」とはこういうことだ。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。