人脈の多さを誇るのに、
何故いつまでも社長だけの単身企業のままなのだろう?
自分の知識を周囲にひけらかすのに、
何故誰からも頼りにされないのだろう?
他の何よりも家族を優先しているのに、
何故家族の中にいて孤独感を味わっているのだろう?
どうも表示している姿とは現実を否定するように、
陰陽真逆に表示しているように思えてならない。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
明日は重要な商談があるから早く寝ようとか、
身体の調子が悪いからお酒を飲むのを控えようとか、
貯金が残り少ないから節約しようとか、
私は昔からそういう感覚に囚われたことがない。
寝不足だから商談がまとまらなかったことも、
お酒を控えたから元気を取り戻したことも、
節約したからお金が貯まったこともない。
人生とは押し並べて成るようにしかならない。
だったら市井の感覚に囚われて生きたいとは思わない。
何事も他者に翻弄されずに自分の思うように生きて、
成り行き任せで愉しく生きた方がはるかに有益だ。
完璧に計画しても状況が変われば意味を成さない。
対して成り行き任せは状況変化も臨機応変にすり抜けられる。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
突然のように湧いてくる疑問。
誰のためにこんなに頑張っているのだろうか?
自分の人生って誰の為にあるのだろうか?
自分は幸せなのだろうか?
こんな愚問は幾ら考えても答えは出てこない。
来るべき時が来れば自ずと答えは出るものだ。
それが結果というものであり結果がでないうちは、
ずっと疑問や不安が脳裏をかすめるものだ。
まして結果とは努力や気合いだけではでない、
人は一人では生きているのではないのだから。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
なんでも受けた理不尽を訴える時代になった。
平等意識という点では善い時代とも言えなくはない。
ここで訴訟を考える人に意識してほしいことがある。
それはどのような訴訟においても、
勝訴しなければ今度は逆に訴えられるということだ。
名誉棄損に損害賠償の突風が巻き起こる。
訴えるなら一時的な感情からではなく、
冷静なる正義感を以って充分な準備を行い、
少なくても確実な証拠と証人はしっかり押さえることだ。
訴える側にも大きなリスクがあることを肝に銘じること。
そして一時の感情によって無関係の家族を巻き込むことなかれ。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
自分の行動に対して理由付けを先に話すこと、
これを「予防線を張る」と言う。
今の行動を後にその正当性を示すための予防線。
これは決して他者に対してではなく、
自分の後ろめたさを隠すための事前の言い訳に過ぎない。
予防線を張っている間は成功しない。
何故なら自分を何時までも甘やかせているから。
自身に厳しく他者には甘くできて成功者への道が開かれる。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。