どうして他の方法を考えつかなかったのだろう。
そのときはそれが最良だと思ったから。
時が流れ過去の自分を冷静に客観視できるようになる。
良かったのか悪かったのか、
答えは今の状況が全てを物語っている。
今の状況とは過去の選択が表面化しているに過ぎない。
つまり未来を輝かしいものにしたいのであれば、
重要なのは今この瞬間の選択だということだ。
中途半端な選択は命取りになる。
「伸るか反るか」の二者択一で即決することだ。
最もやってはいけないこと。
それは予備や安全地帯を確保してからの選択である。
これは極めつけの覚悟の無い愚者がとる方法である。
心を一つに絞らずして何事も上手くいくわけがない。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
やるべきことを放置する「なおざり」。
やったかと思えば手抜きする「おざなり」。
言葉と意味は異なるが一様に「いい加減」だということだ。
「仕事が忙しくて」と言い訳する輩の共通した悪癖でもある。
都合の悪い事を後回しにしていては時間が無くて当たり前。
身に降りかかる災いは疎かにした履行の報復である。
やるべき事を引き延ばすほどに災いは大きく育っていく。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
熟成を身を以って体験すると何事も「待つ」意味を知る。
充分に熟成した食材を味わった瞬間に「待つ」喜びを知る。
どんな事に対しても熟成期間が極めて重要である。
中途半端な熟成期間で味わったところで美味しくはない。
また対象の物事によって熟成期間は大幅に異なる。
これを肌で感じられるのがその道のプロということだ。
多くの人は物事のみならず自分の熟成期間を知らない。
自己都合や思い込みで動くのは熟成していない証拠でもある。
未熟であるなら熟成するまで待てばよい。
ただし熟成は一歩間違えれば腐るリスクが伴う。
成功人生を歩みたいと願うのであれば、
自分を理解し熟成期間を的確に解る人に就けばよい。
熟成段階にいる間は全てをその人に任せるのが待つ姿勢。
自分勝手に動き回るから未熟のまま腐ってしまうのである。
食材も人もまた同様に。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
お昼の時間になったから何か食べなくてはとか、
明日の事を気にして就寝の時間になれば寝なくてはとか。
自身の行動を時間に委譲している人が如何に多いことか。
そんな人は土日は何処かに出かけなくてはとか、
何かをしなくてはと曜日にも行動を委譲している。
他者や何かに自身の行動を委譲する習慣は、
労働集約型産業構造が齎した悪しき習慣病である。
次代は知識集約型や価値集約型の産業構造となる。
仕事はしたいときにして休みたいときに休み、
食べたいときに食べ寝たいときに寝る自律性が肝要となる。
既に自身の行動を委譲して生きる労働者意識の時代ではない。
社員に労働者意識を強く持たせる企業もまた淘汰されていくだろう。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
究極の断捨離の方法であるミニマリズム。
最低限必要なものだけで暮らす究極の生活スタイルである。
しかし常に襲ってくる断捨離意識がストレスを感じるようになる。
そんな人が目指す断捨離の方法がマキシマリズムである。
つまり欲するがままに好きなものに囲まれて暮らす方法である。
欲するものが全て揃えばそれ以上ものが増えることはない。
一度経験して納得したものは二度と得ようとはしないからだ。
興味が無くなり不要になったものから自然に捨てていける。
これなら満足感を得ながらストレスフリーで断捨離を愉しめる。
断捨離の方法にも陰陽のスタイルが存在しているということだ。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。