騙されたとか裏切られたとか、
誰しも大小問わずに人生には悲劇は幾度となく訪れる。
ここで騙されたり裏切られた経緯を熟考してほしい。
多分に思惑や受益を期待したからではないだろうか。
つまりは全てが自身の責任ということである。
この忌まわしい記憶が成功人生の大きな障害になる。
忌まわしい過去の記憶は自身の責だと潔く省みて、
相手を認めることによってのみ負の呪縛から解放される。
ただし認めるとは許すとは異なり状況を理解することにある。
清算するなら先ずは過去の忌まわしい記憶である。
そして新たに開いた未来を無垢の思考で生きること。
忌まわしき過去の記憶を未来の成長の糧に変え、
日々前向きに幸福感に包まれて余生を大いに愉しむことだ。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
歳を重ねるとどんどん目が悪くなり、
これまで見えていたものが見えなくなってくる。
逆に若い頃には観えなかったものが、
今度はくっきりと観えるようになってくる。
対照的なフィジカルな目と心のロジカルな目。
この陰陽バランスを思考すると妙に納得できる。
老兵の心眼を若いうちに得ていたかったと思う昨今。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
本来「不吉な予兆」を指すジンクスでも、
思考を変えれば自分に都合のよいジンクスに変わる。
思考によって成功ジンクスを作ることが肝要である。
私にも多くの善事が起こる成功ジンクスがある。
原因も無く突然歯や頭が痛くなる。
連絡が途絶えた人と偶然に再会する。
外に出た瞬間に雨が降る。
歩いているとお金を拾う。
眠れない夜が続く。
成功ジンクスを作り上げてマイナス状況をプラスに変えろ。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
経験による脳の手抜き処理が思い込みの本質である。
実際にやってみるまでもなく脳が勝手に回答を導き出す。
物事に関しては実に合理的な脳の機能ではあるが、
こと対人に関しては危険極まりない機能である。
人によって思想も思考も価値観も異なるのだから。
つまり新たな関係に過去の経験は障害になっても参考にはならない。
しなくてもよい経験を積んできた人は、
確かめることもなく好意を懐疑的に捉えるようになる。
本物の愛情を知ることもなく人生を終えることになる。
思い込みによる誤った判断は取り返しのつかないことになる。
しなくてもよい経験からくる思考の修正は自身で行うしかない。
悪しき記憶を清算し常に現実を観て本物に触れて生きることだ。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
土砂降りの大雨も何時かは晴れあがる。
厳寒の冬も耐え凌いでいれば春が訪れる。
不安で眠れぬ夜も数時間後には朝を迎える。
成人病も難病も受け入れれば対処できるようになる。
理不尽を認めれば不満や惨めさから開放される。
自然の摂理に抗うから辛い事実だけが表面化する。
自身に起こる全てを真摯に受け入れることだ。
自然の摂理に従えば障害など恐れるに足りない。
自然に生きるとはこういうことなのかもしれない。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。