二十代は若さだけで何も問われるものはない。
三十代は知識や能力を問われるようになる。
四十代は経験や実績を問われるようになる。
五十代は有益な人脈やノウハウを問われるようになる。
還暦越えれば再び問われるものは何もない。
関わる人から長生きして欲しいと思われる存在感だけだ。
それまでに与えてきた者が与えられる立場になる。
還暦までに他者に与えてきたことに利子が付いて戻ってくる。
これまでの生き方が正しかったのかが解る瞬間である。
貰うだけで与えてこなかった人は、
他者に与え続ける余生を強いられるようになる。
迷惑をかけてきた人は厄介事に追われるようになる。
楽してきた人は苦労の連続が押し寄せる。
今も昔も押し並べて人の一生は公平にできている。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
タイミングとは極めて重要な事項である。
信頼関係に大きな影響を及ぼす要因でもある。
今ここで必要だという時に限って外出で不在。
至急やって欲しいときに緊急事で手いっぱい。
飲みに誘うと風邪をこじらせ断られる。
メールしても返信が無く電話は常にすれ違い。
こんなことが連発すると自然に心が離れていく。
同じ次元の時空間を共有している気がしない。
まさに別次元に住んでいる人とはこういうことだ。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
極めて特殊な能力を持つ人と出会うことがある。
周囲は勿論本人さえもその能力に気付いていない。
隠れた能力に気付き磨きあげれば有益な人材に育つ。
まさに原石のような人と奇跡の出会いである。
過去多くのビジネス武勇伝はこうして生まれてきた。
歴史は必然の出会いによって創られ語り継がれる。
ただしどんなに自身に優れた能力が備わっていても、
見抜ける人と出会い信頼を得られるかが難関である。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
相手より攻撃力が強いはずなのに何故勝てないのだろう?
それは相手の防御力が思った以上に強力だからだ。
相手より防御力が強いはずなのに何故負けるのだろう?
それは相手の攻撃力が思った以上に強力だからだ。
経験値が少ない人は思考視野が狭く常に状況判断を見誤る。
そして自身が誰よりも優れていると思い込んでしまっている。
だから世の中から無意味な争いが絶えない。
自尊心が強い人ほど無謀な争いを自ら仕掛けてしまう。
百戦錬磨の達人は相手が先に仕掛けるように誘導する。
最終局面を観てる冷静な人に戦いを望むべきではない。
仕掛けるなら相手の思考と経験値全てを掌握してからである。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
面倒で不都合な事実が起きたら大いに喜ぼうではないか。
何故なら乱れた流れを正常に戻す絶好のタイミングだから。
不都合な事実を輝く未来に一気に変えるチャンス到来である。
何度も経験してきた超短期決戦での事業変革の数々。
その裏には悪しき不都合な事実が多数蠢いていた。
肌感覚が動く瞬間のタイミングを見逃さない。
動くときは俊敏に動き動かないときは微動だもしない。
動きだしたら最終形まで複数同時並行で瞬時に片付ける。
たったの数ヶ月で周辺全ての状況と景色が一変する。
新たな環境には新たなインフラとルールが構築され、
それにマッチした新たな人材が次々と入ってくる。
「終わった過去は引きずらない」のが変革の極意である。
そして変革に「もったいない」思考は一切無用である。
使えるものでも未来に不要なものは断捨離するに限る。
資産に事業に人も例外なく。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。