アルコール飲料を一切出さない喫茶店を純喫茶と呼ぶ。
その昭和ノスタルジックな純喫茶のランチメニューは、
どの店でもほぼ同じで50年以上何も変わっていない。
カレーライス・ナポリタン・ピラフ、
またその店の味を出せるサンドウィッチの数々。
変化球としてドライカレー・ミートソース・ホットサンドがある。
50年以上変わらぬメニューでも常連客が多数いる。
理由はいつ食べても飽きのこない味だからだ。
逆に食べることができなくなっても惜しまれる味でもない。
つまり押し並べて無難な味だということだ。
だから喜ぶ客もいないが文句を言う客もいない。
したがって確実に利益が取れるメニューということだ。
こういうメニューを鉄板メニューという。
妙なプライドで素材を厳選して手間をかけても、
利益にならなければビジネスとしての価値は皆無である。
飲食店を経営するなら鉄板メニューを作り上げることだ。
この思考は全ての業種に応用できる哲学でもある。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
ロジカルシンキングという発想力を鍛える手法がある。
これは直訳すれば論理的思考である。
ロジカルシンキングを有益に使えるのが経営戦略や事業計画、
そして特許のアイデアや技術的解決である。
目的を明確にしたシミュレーションと言えば解りやすい。
対して空想はただのファンタジックな想像に過ぎない。
ただ私の場合だけかもしれないが、
ロジカルシンキングと空想の区別がつかないときがある。
特に休日の昼下がりにビールを飲みながらのジャズ鑑賞。
頭の中にはいろいろなビジョンが複数同時に沸いてくる。
多くは戯れごとだと思っていると、
数日後に特許に係るアイデアに繋がることもある。
また水際で大損失に繋がる事案をストップさせたこともある。
だから頭が暴走を始めたら放置することにしている。
こんな自分に慣れているのか対処法は心得ている。
ただ弊害は数日間ゆっくり眠れなくなるということくらいか。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
一つのパーツが頭に浮かぶ。
そのパーツを考えていると別のパーツが頭に浮かぶ。
それがどんどん増えていき頭の中で収拾がつかなくなる。
浮かんでは消え新たに浮かんでくるパーツの山。
来る日も来る日も自らをストイックなまでに追い込んで、
根気強くパーツを一つ一つ時間をかけて熟考していく。
とある瞬間バラバラだったパーツが一瞬にして組み上がる。
この達成感に心の底から晴々しさが沸いてくる。
忘れることができないほどの大きな喜びを得る瞬間。
精神を集中させた証明でもあり継続してきたことへの勲章である。
それは生涯に渡り大きな金字塔となり、
かけがえのないキラリ輝く宝玉となる。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
ビジネスにプライベートに、
やることがめいっぱい詰まった長い一日。
こんな日が長期連続するときは誰しもある。
こういう怒涛の如く急務が押し寄せるときは、
確実に「流れの岐路」に入り込んでいるときである。
善き流れに乗れるのか、
それとも悪しき流れを作ってしまうのか。
その結果は誰にも解らない。
ただ善き流れに乗れる直前には、
一瞬だが穏やかなフォローの風が吹く。
この極微妙なフォローの風を感じとれるか否か、
経験で鍛えられた超肌感覚が最も活きる瞬間である。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
刹那な瞬間の勝敗を論じたところで何の意味も無い。
一時の勝ちは勝ちに非ず。
一時の負けは負けに非ず。
例え相手に勝ちを譲ってその時は負けたとしても、
次の瞬間に幾らでも逆転で勝ちを収めることができる。
勝敗の意味を正確に知り負けを計算できる者は本当に強い。
勝ちを譲れば相手は自力で勝ったとばかりに油断する。
その油断が後の致命傷になるとは誰しも考えないだろう。
陰陽織り交ぜ誘導を仕組んでおいての負けた振り。
最終的に勝つことを確信できているからこそできる技である。
高度な戦略戦術なき者は必ず負ける。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。