過去幾人もの社員から賞与の際に「自分がこれほど頑張っているのに、苦労してない人も同じように分け前をもらえるなんて平等じゃない!」という言葉が発せられました、こういった感情が起きるのは自分がいろんな意味で今は元気だからかもしれません。
病気や年齢、経済的不安や家庭事情などで自身が思うように動けなくなったときにはたして同じことが言えるでしょうか、「動ける時には他者を助ければよい、できない時に今度は助けられる、ただし与えてきた人だけは」、その人から直接返ってこなくてもよいのです、自分が過去やってきた事はぐるっと回って別の人からでも返ってくるものです。
天は本当に実に平等なのです、そして正義は確かに存在しているのです、与えることができる時に他者に与えていなければ与えられなくなったときには誰からも返ってこないのです、不思議ですがこれが事実なのです。
ペイフォワードの精神を無きものにするような自己利益優先に走る人にはどんな仏の心も伝わらないのですから誰も与えることはしないのです、だから与えるのは他者に与えられる人だけということを充分に見極めたうえで行うことも重要なことです。
「1部の人にはたくさんのことをしてあげているのに、どうして自分には何もしてくれないのですか?」、それはあなたは常に貰うだけでそれで得た利益を他者のみならず対象の人でさえも返すことをしてこなかったからです。
いい年になって誰からも助けてもらえず心配してくれる人がいないのは極めて惨めで辛いことだと思います、この歳になってよく解るのです、今いろいろな人が各種で手伝ってくれます、本当にありがたいことです、それが「ペイフォワード」というプラス連鎖循環のありがたさなのだとつくづく思います。
若い時はそれが解っていてもなかなか納得して実行できないかもしれません、「奪い合えば足りず、分け合えば余る」、他者に与えるだけではなく投資もお金を回すという結果においては同じことです、例え失敗して戻ってこなくてもそのお金でその時には誰かが生活できたのですからそれでよいのです。
過去に無駄になったお金のことは奇麗に忘れることです、なぜならこれから生まれるお金が寄ってこないからです、お金は正直に居心地の良い人のところにちゃんと寄ってきてくれます、お金はぐるぐると世の中を回ることが好きなのです、狭いところに押し込まれたら悲鳴をあげて逃げ出すでしょう、そしてその場所に二度と戻ろうとはしないのです。
このお金という個性を理解したいのであればお金を常に回している人が日頃から何をしているのかをじっくりと観察することです、「欲しいならまずは与えよ、その瞬間に一文無しになったとしても」、数年間だけでも継続してやってみれば解ることです。
「昨今のカップラーメンは安価で世界中の味が日本に居ながらにして楽しめる」、その存在価値を最大限に評価しているグルメレポーターの記事を読んでもの凄い違和感を感じたことがあります。
いろんな国に行っている人には直ぐ解ることですが正直どんなにその国の定番料理に似せた味であっても本物とは雲泥の差です、味だけではなく麺の食感も香りも全てが別物です。
食のレポーターという肩書きを持って記事を書くなら少なくても世界中の本物の味を確認してからにしてほしいと思ってしまいます、日本に居ながらにして世界の何が解ると言うのでしょう。
私はカップラーメンを酷評しているのではないのです、カップラーメンにはカップラーメンとしての価値があると思うのです、それはその国の定番の味を楽しめるところではなく安価で手軽にその国の味の特徴や趣向を味わえるという価値なのです。
そのものの味と味の趣向では大違いです、そこをごちゃまぜにしたら駄目なのです、安いものには安いものなりの価値をしっかり見極めて判断しないといけないのです、カップラーメンは何をしてもカップラーメンであってどんなに頑張っても本物にはなれないのです。
どんなものにも価値が有ります、動かなくなったポンコツでも偽物にでもです、それぞれの価値をしっかり正解に判断して向き合う事が重要だと思うのです、そしてどんな人にもしっかりと存在価値は在るのです、ただ自分では正確に把握できないだけなのかもしれません。
成功する人とは自身の価値を自身と正面から向き合って正確に把握できている人なのだと思うのです、だから自身の価値を100%活用しビジネスに適応できるのです、そして少なくても他者との比較はそこにどんな理由があろうが意味も無い取るに足らない行為だと思うわけです、自身の価値を正確に知って最大限に活用できること、それが最も幸福な状況だということです。
3年前に12年ぶりの事業家に戻り事業家恒例の国内外のベンチャーキャピタル数社と会談していますが、日本のベンチャーキャピタルは世の中が大きく変化しているのにこの十余年で何も変わっていないことにはちょっと驚きます。
これだけ世の中の状況と価値観が変わり十数年前とは明らかに異なる分野が急成長を遂げているにも関らず相変わらずの安定成長期のままの投資スタンスと姿勢です、香港やシンガポールのベンチャーキャピタリストは非常にフレンドリーに接してくれますが、いざ会議に入ると詳細に技術やマーケティングを精査し納得すれば「是非、投資させてほしい」という姿勢に変わります。
そしてプロジェクトの一員としてマーケティングサポートを行い次世代商品に関する意見交換を積極的に求めてきます、ベンチャーキャピタルとはそもそも銀行ではないのです、リスクヘッジを重んじるのではなくて自らリスクを背負ってハイリターンを狙うビジネススキームなのです。
そしてどんなにバックに大手企業のスポンサーがいようがAIやブロックチェーンなどの新分野のIT企業と真に付き合って行きたいのならまずはスーツを脱ぐことです(物理的にも精神的にも)、杓子定規な姿勢では未来志向のIT企業の考えている事など理解できるわけがありません。
「審査担当が元々IT技術者なので、技術的に確かな目利きができるのが強み」と言われても何の根拠も見い出すこともできません、今の時代にサラリーマン技術者の廃れた過去技術の思い込み思考で未来の新分野技術と考案者の思想を正確に計れるわけがないのです。
ビジネスに外見は無関係と思われるかもしれませんが外見は確実に行動と思考を変えます、ラフなものを身に着けていると自由な発想になることなど多くの人が実感できているはずです、にもかかわらずそれを行おうとしないところが「善くも悪しくも、やっぱり日本のサラリーマンなんだな」と思うところです。
先の香港やシンガポールのベンチャーキャピタリストでスーツ姿の人は皆無です、投資先の技術者とフレンドリーに付き合わなければ本質的なものが見えてこないことを解っているのです。
今や購入も投資もP2P取引(当事者同士の直接相対取引)の時代です、不動産購入から第三者割当増資的な資金調達もネットで直接行える時代です、旧態依然の恐竜は地球規模での大変化の時代には生き残れないのです。
私のような幾許もない老兵だってこうして時代に合わせて日々変化順応しているのです、企業だけではなく老若男女問わず世の中の変化にもっと敏感になってほしいと思うのです。
今年でブログ歴18年、楽天ブログに始まりアメブロと媒体を変えてきましたがF5が最後のブログメディアとなると思います、このブログの最大のメリットはデジタルマーケティングツールとしての情報発信がコンセプトとしているためコメントなど読者とのリンケージを一切行わなくて済み読者の反応を気にせずにマイペースに書けるところです。
ブログを始めたきっかけは「生きてきた足跡を残すこと」にありました、過去いろいろな人と出会い各種のビジネスを行ってきて多くの気付きやノウハウが蓄積されました、当時、メイン法人は上場準備に入り全社一丸となって取り組んでいた時期です、そんなある時に何かの方法で過去得てきたものを残しておきたいと突然思ったのです。
最初は書きたい事が有り過ぎてなかなか文章にまとまりません、また一つの記事で数時間を要することなど珍しくもありませんでした、それが1年もすると自分なりの整理方法と執筆方法が確立してくるようになります、その一つがカテゴリ別のアイデアノートでした。
何かを思いついたらメモ帳にまずタイトルとざっくりとした内容を箇条書きにして週末に文章化してはPC上である程度まとめカテゴリ別のフォルダにどんどん貯め込んでいきます、そうこうしていくとあっという間に数百の下書きができあがります、それを週末に文脈を気にせずどんどん肉付けします、そして投稿する際に再編集して完了です。
一連の作業が自動化してくると今度は投稿が間に合わないほどに上げたい記事が貯まってきます、1日1記事投稿と決めていたのに3年後には多い日で5記事以上も投稿したこともありました、予約投稿ができない故の24時間ブログマラソンというのが当時流行っていて24時間で当時1日の最大投稿数である50記事を徹夜してリアルタイムで上げたこともあります。
何事も継続することで新たな産物を生んでいきます、この継続から生まれたコンテンツは現在実に5000記事以上、ビジネス関係だけでも3000記事を超えます、原稿用紙にしておそらく1万枚強、18年間毎日のように記事を上げていれば当然の結果かもしれません。
これらのブログ記事から過去6冊も書籍に変わっていきました、そして書籍化するとそのカテゴリの記事を全部削除します、その意味では私のブログは将来の書籍への下書きなのかもしれません、孔子論語や兵法、また陰陽五行の研究などの記事数は膨大なものとなったのを今でも記憶しています、これらも出版と同時に綺麗に全て削除しました。
そして継続の結果、始めたきっかけである「生きてきた足跡」を紙媒体に多数残すことが叶いました、ブログのコンテンツはデジタル情報の個人所有物です、上手く書こうなどという思惑は捨てることです、思ったことをそのまま書けばよく自己満足で全然構わないと思います、違和感を感じたら後でいくらでも編集できるのがブログなのですから。
ブログ投稿がストレスになると言う人の多くは他者に読んでもらうことに視点をおいているからです、読んでもらおうとするならブログではなくてSNSやメルマガにしたらいいと思います、そもそもブログとは日記の意味ですから他者が読むために書くのではなく他者に読まれても構わないという意味で書けばよろしいのではないかと思います。
それよりも思ったことを自身の言葉で書き残すことに意味があります、その一つが思考の整理です、その意味では考えながら書くのはご法度です、考えていたことをスラスラ書けないようではまだ知識や思考が未熟な証拠です。
私的には過去ブログによって多くの事業スキームが確立されたことは事実として存在し書いていくうちに新たなアイデアや具体的な計画が鮮明にビジョン化したことも事実です、将来の為のコンテンツを残せて思考の整理ができる、まさに1石2鳥だと思うのです。
だから今も尚ブログは書き続けています、自分自身の頭の整理のために、明日の書籍の下書きの為に、新たな事業アイデアを明確にするために、そして隠居後の愉しみを残しておくために、そして懲りもせず最近新たに4つのブログがほぼ同時期にスタートしました、既に自身が記事を投稿しているブログが10個以上も在るにも関らずです。
やるんだったら何事もストイックに徹底してやり続ける、その先に大きな果実も喜びも在ることを経験上解っています、継続することが辛くなったときには潔く全てのブログを止めます、何事も中途半端な行動から有益なものが生まれることなどないのです。
「覚悟」という言葉は意外と人はよく使うわりには曖昧な言葉のような気がします、辞書によれば「危険な事や不利な事でも逃げずに受け入れる心構えをすること」と示されています。
孔子は「覚悟とは人として正しい道を選び歩むこと」と深いところで弟子に示しています、どのような解釈も人それぞれでいいと思うのですが重要なのはそれを言葉ではなく姿勢で示すことではないかと思うのです。
少なくても自己満足を優先し自身の擁護に使うべき言葉ではないと思います、覚悟が有るのか無いか、それは口で説明することではなくて姿勢や結果で示すものです、そして覚悟の程は簡単に見破られます、その人の心に在る本質を見極めれば手に取るように解るからです。
経済的なことで寄ってきた人は経済的に満足しなければ去り、知識や知恵を得たいと寄ってきた人は何も教えなければ去っていきます、孔子はこうして自身の愛弟子の人定めをしたのだと思います、そうでなければ「正しい道を選び歩むこと」という言葉の真意が理解できません。
私にも日々いろいろな人が寄ってきては短期間で去っていきます、私は最低でも3年間は覚悟の程を知るまでは一方的に与えることはしないようにしているのですから当然かもしれません、以前は先に与えることをしてその人となりを見極めていましたが時間がかかりすぎてしまいます。
何も与えなくても自身で何かを得ようと努力する人は何も与えられなくてもいつまでも去ろうとはしません、そして自身の努力でいろいろな事をどんな時もどんなことからも自ら学び取って行きます、それが本物の弟子になった者の覚悟だと思います。
成功者と呼ばれ経済的に余裕が欲しいなら仲間うちで協力し合い努力しあって築くものです、自らは何も他者に与えずに他者の成果のおこぼれをもらうだけならそれはただのパラサイトにすぎません、自ら何の努力もしない、学ぼうという覚悟もない、そして自らリスクも背負わない、自分と家族の安全地帯を確保しておきながら与えられるのをただ待つだけ、それではあまりにも都合良すぎるというものです。
覚悟は生き方や姿勢にしっかり現れるものだと思う昨今、視力はどんどん衰えてきますが心眼は歳を増すごとにくっきりと見えるようになってきます。