「興味があるからやるというよりは、やるから興味ができる場合がどうも多いようである」
日本が誇る天才物理学者である寺田寅彦の言葉は深いです、寺田寅彦は人間味溢れる日本の物理学の権威者であり、「吾輩は猫である」の水島寒月や「三四郎」の野々宮宗八のモデルとなった人物としても知られています。
物理学の研究を論文ではなく随筆としてまとめあげ、一般の人にも解りやすく解説した功績は極めて大きいものがあります。
食べず嫌いと同じくビジネスにおいても興味が湧かないからそれをやらないという人は実に多いです、もっと言えば興味の無い人と会おうとしません。
あえて言わせていただければ、その思考は自己成長の大きな機会損失に繋がるリスクが極めて高いと言えます。
先ずはやってみる、先ずは組んでみることが肝要です、意外や当初のイメージとは異なり新たなる発見や自分の感性に共感する事業や人であったりするものです。
成功する人は既成概念で人や事象を決め付けることはしません、日々新たなる事にチャレンジすることが右脳を活性化し老いても脳は若々しく居られるのです。
人は理解できないものを恐怖と感じるようだ。
考えたくないものとは恐怖心がそうさせる。
では恐怖心を煽る根幹は何だろう。
それは自分の中に居るもう一人の自分の存在。
心を開いてもう一人の自分を問い詰めろ。
もう一人の自分を陽光の下に曝け出せ。
※耳順(じじゅん)とは、孔子論語の「六十にして人の話しを素直に聞けるようになった」という節を起源とする60歳代の呼び名である。
私は子供の頃から理科系思考であり文学や概念的なことが好きではありません、例外になく理科系の人の楽しみは真実を追求することにあり答えが出ない曖昧な概念的な学問は好きではないと思います。
そんな私が歳を重ねて50歳ほどになるころに熱中したのが概念や心という曖昧な世界でした、特に「哲学」は極めて宗教とも結びつく学問でもあり、その概念の中には「何故、こういう発想ができるのだろうか?」という強い衝撃を受けることもあります。
例えば他者の心を理解しようとするときには曖昧な存在に関して冷厳な理科系の思考では無理があります、曖昧な存在には曖昧な思考で対抗しなくては理解し表現することは不可能です。
理科系思考の私が曖昧さを追求する「哲学」や「宗教思想」という学問に興味をひかれたことは自分自身も驚きを隠せませんでした、以後ロジカルシンキングにも大いに「哲学」的な思考が活かされるようになりました。
その結果は、例えばB2CサービスなどでのUI(ユーザーインターフェース)を磨きあげるときなどに大いに発揮されました。
サービス展開は誰の利益を優先するのか、この答えを得るのには理科系のプロダクツアウト型の発想では生まれてきません、使う人の心を覗き観るようなマーケットイン型の発想が不可欠になります。
「曖昧な存在には曖昧さを以って解決する」、理科系思考の私にとって極めて大きな学びを得た瞬間でした。
それが本当に優れたものかどうかは、
一度でも使ってみないと解らない。
人も企業も然りだ。
どんなことに対しても頭だけで判断するな。
※長いビジネス人生、多くの人と出会い、多くの善悪を学びました。
プレゼントは何を貰ったかではない。
贈り主の気持ちを察することに意味と価値がある。
プレゼントする行為には陰陽の両面性が在る。
※長いビジネス人生、多くの人と出会い、多くの善悪を学びました。