昔々、木阿弥(もくあみ)という人がおりました。
何をやっても中途半端で村の厄介者でした。
そんな木阿弥が急に何を思ったか、
突然家族を置いて山に籠ったのです。
修行僧となり今までの人生を悔い改めようと、
木の実と野草を食べ孤独と戦う日々。
しかし僅か数年で家に戻ってきたのです。
村人は昔と何も変わってない木阿弥を見て嘲笑しました。
「やっぱり元の木阿弥だ」
志を一度持つと天は必ず大きな試練を与える。
その繰り返す試練に耐えることを修行と呼ぶ。
何故か修行を始めるや否や障害が立ちはだかり、
心身共に追い詰められていく。
認めてもらえない環境ギャップ。
押し寄せるノルマの山に結果を出せない重圧。
自分の弱さ未熟さが一気に表面化する恐怖感。
今までの価値観や知識が無力化される絶望感。
果ては自己都合の名分を作って試練から逃走。
これまでの苦労が一瞬にして無意味化する瞬間。
「元の木阿弥」
人生に挫折という実績と悔いを残すことになる。
一生かけても拭い去ることができないほどの。
まあ、逃走は百歩譲って善しとしても、
我慢強く支援してきた人達に対して何をどう清算する?
綺麗に清算せずして人生のリスタートは不可能である。
※耳順(じじゅん)とは、孔子論語の「六十にして人の話しを素直に聞けるようになった」という節を起源とする60歳代の呼び名である。
夜明け前が最も暗し。
春直前が最も寒し。
成功の直前が最も辛し。
あと一歩、あともう少し。
そこさえ超えれば一転して楽になる。
多くの人は、この直前で耐えられずに諦めてしまう。
辛さから逃げたら辛さの堂々巡りの人生で終わる。
自身と仲間を信じて最後の最後まで耐え忍ぶ。
信じきって耐えた者だけが輝く未来を創造できる。
※耳順(じじゅん)とは、孔子論語の「六十にして人の話しを素直に聞けるようになった」という節を起源とする60歳代の呼び名である。
水は高いところから低いところへと流れる。
窪みがあればそこへ溜まる。
塞き止められれば押しのける。
これ極自然な摂理である。
人間も無理して不自然に生きるよりも、
この世に生まれ落ちた使命を見つけ、
使命に従い自然体で生きるのがよい。
※耳順(じじゅん)とは、孔子論語の「六十にして人の話しを素直に聞けるようになった」という節を起源とする60歳代の呼び名である。
考えても結論が出ないことは、
幾ら考えても結論は出ないものである。
既に終わってしまった過去のこと。
他者が介在して起こるべく結末。
自分の考えだけではどうすることもできない。
それよりも常に考えるべきことは、
自分の未来と人生についてである。
幸福に生きたければ、
「どうすべきか」という義務思考から、
「どうしたい」という欲求思考で生きることだ。
※耳順(じじゅん)とは、孔子論語の「六十にして人の話しを素直に聞けるようになった」という節を起源とする60歳代の呼び名である。
「もうはまだなり、まだはもうなり」
「もう駄目だ」と考えるときは、
まだ解決策が幾つも残されているものだ。
「まだ大丈夫」と考えるときは、
もう限界を越えているのかもしれない。
いずれにしても自分に無理しないことが肝要。
一旦は現状を真摯に受け入れ感謝することだ。
感謝の気持ちが足りないから煩悩に支配され迷う。
自分の心に従い現状に感謝して生きること、
それが幸福に暮らせる方法だと思う。
※耳順(じじゅん)とは、孔子論語の「六十にして人の話しを素直に聞けるようになった」という節を起源とする60歳代の呼び名である。