2021年12月15日 00:00
昔々、木阿弥(もくあみ)という人がおりました。
何をやっても中途半端で村の厄介者でした。
そんな木阿弥が急に何を思ったか、
突然家族を置いて山に籠ったのです。
修行僧となり今までの人生を悔い改めようと、
木の実と野草を食べ孤独と戦う日々。
しかし僅か数年で家に戻ってきたのです。
村人は昔と何も変わってない木阿弥を見て嘲笑しました。
「やっぱり元の木阿弥だ」
志を一度持つと天は必ず大きな試練を与える。
その繰り返す試練に耐えることを修行と呼ぶ。
何故か修行を始めるや否や障害が立ちはだかり、
心身共に追い詰められていく。
認めてもらえない環境ギャップ。
押し寄せるノルマの山に結果を出せない重圧。
自分の弱さ未熟さが一気に表面化する恐怖感。
今までの価値観や知識が無力化される絶望感。
果ては自己都合の名分を作って試練から逃走。
これまでの苦労が一瞬にして無意味化する瞬間。
「元の木阿弥」
人生に挫折という実績と悔いを残すことになる。
一生かけても拭い去ることができないほどの。
まあ、逃走は百歩譲って善しとしても、
我慢強く支援してきた人達に対して何をどう清算する?
綺麗に清算せずして人生のリスタートは不可能である。
※耳順(じじゅん)とは、孔子論語の「六十にして人の話しを素直に聞けるようになった」という節を起源とする60歳代の呼び名である。