トラブルの嵐を巻き起こすトラブルメーカーという存在。
正常な人間関係は保つに面倒で好まないのだろう。
周囲が離れだすと今度は別のところを探り出す。
そして同じ事を繰り返す。
トラブルによる厄介な人間関係。
相手にされず無視されるよりもきっと幸福なのだろう。
おそらく孤独に押しつぶされることからの、
自覚の無い自己防衛本能なのかもしれない。
※耳順(じじゅん)とは、孔子論語の「六十にして人の話しを素直に聞けるようになった」という節を起源とする60歳代の呼び名である。
決別の時は言いたいことが山ほど有っても、
何も語らないのが賢い別れ方というものだ。
人間関係とは常に一方通行ではなく、
相互の時空が重なり合う事象なのだ。
その結果においての決別もまた、
双方の何らかのすれ違いが生じたからである。
決別は最終ではなく縁があれば再会するもの。
一過性の瞬間につまらない捨て台詞は、
未来において大きな遺恨を残すことになる。
捨て台詞のたった一言で、
未来に訪れる縁への扉が閉ざされることもある。
決別の時は笑顔で無言が善い。
※耳順(じじゅん)とは、孔子論語の「六十にして人の話しを素直に聞けるようになった」という節を起源とする60歳代の呼び名である。
ときとして人は不要な心理を欲することがある。
退屈より怒りや悩みの方が心地よいから?
まあ押し並べて時間を持て余しているという証拠である。
※長いビジネス人生、多くの人と出会い、多くの善悪を学びました。
あの人にできて私にできない理由は無い?
それならあなたのやっていることも、
誰にでもできるということだ。
※長いビジネス人生、多くの人と出会い、多くの善悪を学びました。
失う本質とは失うという事象そのものではない。
失った後に訪れる現実が意味を表すことになる。
失って初めて味わう開放感もあれば、
後悔の念に押しつぶされることもある。
失うとは善しにせよ悪しきにせよ、
失う前にはその価値が正確には解らない。
失って初めてその価値が表面化する。
失うことが善いことなのか悪いことなのかは、
失ってみれば明確に解ることだ。
もっとも失って再確認したところで元には戻らないが。
※耳順(じじゅん)とは、孔子論語の「六十にして人の話しを素直に聞けるようになった」という節を起源とする60歳代の呼び名である。