花が咲かない植物は花を欲しがるものだ。
花を咲かす植物は花のない植物の気楽さを欲しがるものだ。
自分に無いものを欲しがったところで意味が無い。
花を咲かせない植物に花を付け飾っても似合わない。
人もまた同様に自分に合った生き方をまっとうすることだ。
完ぺきに他者の真似をしたとしても、
結果的に自分を見失うだけだから。
他者に真似されて初めて自分の個性が評価された証となる。
人は価値の無いものを真似しようとは思わないから。
※耳順(じじゅん)とは、孔子論語の「六十にして人の話しを素直に聞けるようになった」という節を起源とする60歳代の呼び名である。
平時のときはミスしても笑い話で終わる。
しかし有事のときのミスは致命傷となる。
今までの努力も成果も一瞬にして吹き飛んでしまう。
普段はマイペースに何をしていてもいいが、
ここぞというときに期日通りに完璧にやり遂げることが肝要。
それが最低限の信頼の証である。
最後の最後に帳尻を合わせられるか否か、
それがプロとしての真価を問われる瞬間である。
※耳順(じじゅん)とは、孔子論語の「六十にして人の話しを素直に聞けるようになった」という節を起源とする60歳代の呼び名である。
トラブルの嵐を巻き起こすトラブルメーカーという存在。
正常な人間関係は保つに面倒で好まないのだろう。
周囲が離れだすと今度は別のところを探り出す。
そして同じ事を繰り返す。
トラブルによる厄介な人間関係。
相手にされず無視されるよりもきっと幸福なのだろう。
おそらく孤独に押しつぶされることからの、
自覚の無い自己防衛本能なのかもしれない。
※耳順(じじゅん)とは、孔子論語の「六十にして人の話しを素直に聞けるようになった」という節を起源とする60歳代の呼び名である。
決別の時は言いたいことが山ほど有っても、
何も語らないのが賢い別れ方というものだ。
人間関係とは常に一方通行ではなく、
相互の時空が重なり合う事象なのだ。
その結果においての決別もまた、
双方の何らかのすれ違いが生じたからである。
決別は最終ではなく縁があれば再会するもの。
一過性の瞬間につまらない捨て台詞は、
未来において大きな遺恨を残すことになる。
捨て台詞のたった一言で、
未来に訪れる縁への扉が閉ざされることもある。
決別の時は笑顔で無言が善い。
※耳順(じじゅん)とは、孔子論語の「六十にして人の話しを素直に聞けるようになった」という節を起源とする60歳代の呼び名である。
ときとして人は不要な心理を欲することがある。
退屈より怒りや悩みの方が心地よいから?
まあ押し並べて時間を持て余しているという証拠である。
※長いビジネス人生、多くの人と出会い、多くの善悪を学びました。