「大統領や総理大臣には代わりがいるだろうが、オレの代わりはいないんだ」
短編SF作家でおなじみの星新一のこの一言は実に明快で解りやすいものがあります、大学生の頃は短編集を買い漁り講義のちょっとした待ち時間などによく読んでいたものです。
どんな人であろうが自分の人生の「主役」です、その「主役」を引き立て輝かせなくてはいけません、人とはみんな同じように何も無いゼロの状態で生まれ、そしてあの世へは何も持って行くことはできません。
生きている間だけなのです、その限られた時間を私は1秒たりとも無駄にはしたくはありません、自分の人生に意味ある事を意味ある人とだけ過ごしていたいのです。
どんなに疲れていても、どんなに酔っていても、家に帰れば寝る前にもうひと頑張り勉強して今のビジネスに必要な知識を得てきました。
私は過去2度も仮死を経験しました、1度目は死産から復活し、2度目は37歳で内臓を5つも摘出し仮死状態から生還しました。
その時の執刀医が意識が戻った私にこう言いました、「この世にまだやり残したことが有るんですね」と、1度ならずも2度もあの世に行きかけました、その経験から私には怖いものは何もありません。
一つだけ有るとすれば「自分の人生に失望してあの世へ行くこと」、それが私には最高に怖いのです、私はあの世へ行く時は満面の笑顔で大満足のなかで向かいたいのです。
井の中の蛙(かわず)、
大海を知らずにいれば幸せだった。
中途半端な覚悟で井戸を出るべきではなかった。
それに気づいて井戸に戻るも自分次第である。
ただし二度と夢を抱き井戸から出るべきではない。
井戸の中で大人しく暮らしているのが安全だから。
これ以上誰も傷つけずに済むから。
他者と上手く関われないのであれば、
他者と関わずに済む場所が定住の場所だということだ。
※耳順(じじゅん)とは、孔子論語の「六十にして人の話しを素直に聞けるようになった」という節を起源とする60歳代の呼び名である。
歳を重ねると頑張らずに利益を生む方法が自然と身についてくるようです、元気に動けた若いころに今の知恵が有ったらどんなに楽しく暮らせたことか解りません。
皆さんそう考えるのですが人生とはそういうバランスの上に成り立っているものなのですから考えても無意味なことです、ただ年齢と共に広がってくる知恵と体力の乖離には理不尽このうえなく思えてきます。
金融商品は年に数パーセントしか利益が出ないとしても、 それを10年と続けていれば複利が効いてきて自然に金額が一定時期から膨れ上がってきます。
醗酵食品である味噌やチーズなども同じことで、 じっくりと時間をかければ麹や乳酸菌などの菌や酵素が美味しい味を育ててくれます。
この世に在るものの多くは、時間をかけて育てることで利益を生む要素が多々在ることにもっと気付くべきです。
にも関わらず、利益が出る前に時間をかけることに耐えられずに諦めてしまう人がどれほどいるでしょうか?
成功しない人というのは、ズバリ言うとこの時間をかけて育てるということができない人なのかもしれません。
人間の場合も然りで若い頃は同じ学校で同じ教育を受けてきます、この辺りまでは家庭環境の違いこそあれそれほどの差は現れてきません。
それが社会人になり20年と経つうちに歩んだ人生の経験によって、人間もそれぞれに思考が熟成され結果的に個性が大きく異なってきます。
経験は醗酵食品でいう手入れと同様です、その経験の善し悪しにより人によって勝者と敗者に別れてしまうように個性の差が大きく出てくるようになるのです。
年金を貰うような年齢になったとき自分はどんな人間に熟成されているのでしょうか?
そんなことを考えながら将来計画をしている人は案外少ないのではないでしょうか?
多くの人は直近のささやかな幸福感に捉われているように思えて仕方ないのです、この歳になって一つ言える事は熟成期間中の価値観の置き方次第で人生そのものの熟成具合に大きく差が出てくるようになるということです。
ここで価値を何に見出すかが重要なのです、お金か、地位か、ビジネスか、生き方か?
何に価値を見い出そうがその人の自由です、ただ成功して本当の幸福を勝ち取りたいのであればその価値を追うのではなく「自分が大切にする価値をじっくり時間をかけて育てながら熟成させる」ことです。
こういうロジカルシンキングが極めて肝要だと思うのです。
そして、ロジカルシンキングもまた時間をかけて熟成させることで感度も精度も極まりながら冴えてくるのです。
常に考えるべきことは、
起きている事実を直視し状況を正確に把握することだ。
そして誰を信じて誰と組むかだ。
※長いビジネス人生、多くの人と出会い、多くの善悪を学びました。
経営が上手くいかないのは、
経営者の経営能力の問題ではなくて、
経営のセンスが無いだけだ。
※長いビジネス人生、多くの人と出会い、多くの善悪を学びました。