ジェットコースターにお化け屋敷、人は何故恐怖感を欲しがるのでしょうか?
そして何故、一度大泣きするほどの恐怖感を味わったのにまた何度も同じことを行うのでしょうか?
怖いと解っていながらそれを好んで行う動物は人間以外にはありません、他の動物はみな一度でも危険な目に合うと二度とそれを行うことはありません、人間が持つ恐怖感を得ても何度も同じ事を繰り返す本質とは何でしょうか?
人間はついこの間まで常に危険と隣り合わせでした、夜になれば肉食動物などに襲われる危険があります、また食料を確保するにも狩を行い山や海に入って危険を犯してまでも生きるために獲物をとっていました。
こういう危険な状況のときはノルアドレナリンが大量に放出され運動能力を高めています、これはいわゆる生存本能です。
それが文明の発達により危険を冒す必要も危険そのものも少なくなってきました、つまりノルアドレナリンが放出する状況そのものが少なくなったわけです。
平和な状況では脳内ホルモンのバランスが乱れてきます、結果ノルアドレナリンの分泌を調整するセロトニンの分泌も正常でなくなり鬱状態になります、また快楽ホルモンであるドーパミンの分泌も当然正常ではなくなるのです。
結果、何もかもつまらないと感じただ生きているだけというような感覚に陥ってくるのです。
その状態を自ら正常化させるため、危険状況が無くなった現代の人間は「恐怖」や「危険」を無意識に欲しがるのではないでしょうか?
そして、涙を流す・泣く・叫ぶという行為により思いっきりノルアドレナリンが放出されます、その一連の行為が終わった後の安心感からセロトニン、そして次に快楽ホルモンであるドーパミンが大量に放出されるのです。
この恐怖から快感へのギャップにより気持ち良いと感じるため、結果何度も行うという欲求に変わります、これが人間が恐怖感を欲しがる本質ではないでしょうか。
男女に関わらず社会に出ている人は、ある意味仕事を通して常にリスクと向き合うことが多く存在します。
「失敗したらどうしよう」とか「クライアントに怒られるな」とか、こういう状況でノルアドレナリンが大量放出されています。
つまり、平均的に見るとこういったリスクに直面していない人のほうが「怖いもの好き」と言えます、リスクの無い人はノルアドレナリンが放出される状況が少ないのかもしれません。
また突然ヒステリックになる人は日常的にノルアドレナリンの放出が少ないのだそうです、どうも人間が平和に暮らすためには常に適度なリスクや不安が必要なようです。
人間ドックを受けた際に栄養士の生活指導を勧められたことがありました、その要因は脂質異常と尿酸値の異常が認められたというもので、押し並べて免疫力低下傾向にあるらしく慢性的な成人病に移行する可能性が高いと指摘されたのです。
免疫力が低下する要因としては、多くはアルコールや糖の過剰摂取の結果における尿の酸性化が原因のようです。
当時の私は毎日のようにチョコレートやシュークリームなどを食べ、連日かなりのアルコールを飲んでいたのですから当然といえば当然の結果かもしれません。
尿酸値が高くなると痛風や糖尿病などにかかりやすくなり、免疫力低下によりちょっとした傷でも化膿しやすくなります。
改善策は、食事の際に野菜や海草類をバランスよく摂取することだと言われました。
もっとも私は果物は大好きですが野菜を好んでは食べないので、どうしたものかと考えた末に野菜ジュースを飲むことにしました。
その結果は直ぐ翌年の人間ドックで中性脂肪が減り尿酸値も大幅に改善し、原因不明の微熱も出なくなりました。
ビジネスだけではなく、プライベートでも毎日快適に過ごすためには健康であるからこそだと思い知らされました。
そういった経験もあり、食と健康に関するコンサルティングを別会社の事業として始動させたのです。
これを機に食と健康についての正確な情報を伝えていければと思っています、人とは何かを始めるときは必ずそのきっかけや理由があるものです。
ただ、そのきっかけが自ら欲したものなのかそれとも他者からもたらされたものなのかが重要です。
当然のこと自ら欲したものは継続して愉しめるのです、どんなことも自分の気持ちに正直に従う、これが生き方上手の方法なのかもしれません。
悩む人は嫌いではありません、ただし条件があります。
悩む状況とはいくつかあると思います、場合によっては微笑ましくも思う悩める人もいます。
一つは、目標などをクリアできずにどうしたらよいかと悩んでいる人。
または、大きなミスをおかして起死回生に向けて何かをしなくてはと真剣に悩んでいる人、こういう人は悩んでいるにも関わらず強力なプラスのオーラを放っている場合が多いものです。
このように、前向きな気持ちからくる悩みを持つ状況もこのような人も好感を持てます。
対して、大きな目標もなく何をしたら生活できるのだろうかとただ何となく日々悶々と悩んでいる人。
表情も暗くマイナスオーラが出ています、同じ悩んでいる状態でも前者と後者では雲泥の差があります。
こういう人でも悩むということは、やはり現実と自分の期待との乖離があるのですから悩む基準があるだけまだ救われます。
最も良くないのは抑揚が無いしゃべり、食べて寝るだけの生活で自分からは何もせず他者依存に始終するだけの人です、悩みとは無縁という感じの生き方です。
こういう人からはプラスもマイナスもオーラを感じることができません、存在感すら無いのですから周囲の人の記憶も徐々に薄れていきます。
悩むという行為は生きている最大の証拠であり人間である最大の特権なのです、つまりは生きていたいとか今より良くなりたいという願望からくるものだからです。
悩み、それは次のステップアップの為の充電期間なのです、どうせ悩むならトコトンでっかい悩みを抱えるが好ましいと思います。
大好きな事や人、そして大嫌い事や人、自分の感情がウキウキしたり怒りに満ちていたり大いに高ぶります。
好きと嫌い、これが同じ次元に存在し同じ要因だとしたら信じますか?
大好きな事や人のことは何をしていても頭に浮かんできます、でもそれは好きなことだから不愉快にはなりません。
同じように大嫌いな事や人のことも常に頭に浮かびます、それは嫌いなことなので不愉快に感じ忘れようとすればするほど浮かんできます。
これはどうしてでしょうか?
それは双方無視できないという感情があるからです、そしてそこにはノルアドレナリンという脳内ホルモンが深く関与しています。
ノルアドレナリンは本来は不快物質なのですが、「好き」という感情にも「嫌い」と感情と同じように放出されるのです。
つまり「好き」もある意味では不快なのかも知れません、そう尋常ではない心の動揺が発生するから心身は穏やかではなく不快と感じるのです。
対してどうでもよい事や人のことって案外気になりませんし心も穏やかです、そこにはノルアドレナリンが関与しないからです。
でも、何故「好き」な感情にノルアドレナリンが出るのでしょうか?
おそらく、「好き」という感情の裏には「危険」とか「怖い」という感情が隠れているのではないでしょうか?
大好きな事や人が一夜にして大嫌いな事や人に変わる、またその逆もある、これは両者が同じ次元の感情であることを物語っているのです。
大切な事や人とは、普段気にもしていませんが何処かで「失いたくない」という不安な気持ちがあるのです。
大学時代に毎日のように徹夜で随筆を読み込むほどにハマった人、それが「寺田寅彦」という科学者でした、科学者でありながら深い人間性を感じる文章に大いに魅せられてしまったのです。
寺田寅彦は理工学研究所長を務めた日本の物理学の権威者ですが、その人間味溢れる科学者は生き方も独特で小説「吾輩は猫である」の水島寒月や「三四郎」の野々宮宗八のモデルとなった人物としても知られています。
物理学の研究を科学論文ではなく随筆としてまとめあげ、一般の人にも解りやすく解説した功績は「凄い」の一言です。
例えば、「キリンの模様はなぜ乾燥した台地のひび割れ模様と同じなのか」や、「ホウセンカの種はなぜ同じ角度で飛び出すのか」などの話しは一気読みしてしまったほどです。
当然、これだけの人ですから名言も感服するものばかりです。
例えば、「災いは忘れたころにやってくる」は私も各所で多用しているほど好きな名言の一つです。
他にも「健康な人には病気になるという心配があるが、病人には回復するという楽しみがある」や、「私は"四十にして惑わず"という言葉の裏に、四十は惑いやすい年齢であるという隠れた意味を認めたい」などは、科学者らしい深い洞察力を感じざるを得ません。
若いころ読んでいた本や視ていたテレビ、人間とは確実にこういったものから影響を受け思考が形成されてくるのだと思います。
これは大人になって確実にビジネス手法にも顕著に表れると思います、「三つ子の魂百までも」とはよく言ったものです、気が付いたときに思考修正を行うことが肝要かと思うのです。
私は26歳のときのモスクワで3ヶ月間の生活、37歳で内臓を5つも切除し死の狭間を行き来したことなどをきっかけに大きく思考が変化しました。
何をきっかけにしようが思考の修正は若いほど良いです、何故ならその後の人生を長く有益に楽しめるのですから。