私は昔からブログへの記事投稿は予約投稿を基本としています、その理由は常に自分のノルマとしている「毎日記事投稿」を意識したくないからに他なりません。
もしも、予約投稿無しで「毎日記事投稿」を実現しようとしたら、多い年では数十回も国内外の出張があったし夜の会食やお付き合いは毎日のようにあるので精神的にリラックスできなくなるという理由からです。
そして行動をカモフラージュできるところも利点です、若い経営者は出張やプライベートを表示しては満足しているようですが、できれば経営者は取引先やクライアントの目をもっと気にした方がよいです。
人は何を知って何を考えるか解りません、個人経営で個人相手のビジネスしている人でも過去の表示がいつ仇になるかも解りません。
例えば支払いや納期を伸ばしてきたと思ったら家族旅行に行っていた、これを後で知られたら不要な不信感を持たれてしまいます。
また他の事業を、こちらの事業よりも優先しているなどと思われたらそれこそ信頼関係にも影響してきます。
特に、支払いやお金を無心した後のプライベート表示は人として行為そのものが間違っています。
それらを解決してくれる予約投稿は実に優れた機能でもあるのですが、幾つかの不都合も出てくることもあります。
その一つは時間的な勘違いです、例えば私は週一特番としているカテゴリは週末にまとめて幾つも書いているので気が付いたら既に1年以上先まで予約投稿で埋まっています。
これが原因なのか、時々ふと「あれ、そろそろ決算?」というような妙な時間錯誤が起こるときがあります。
もう一つはほとんどのカテゴリで数ヶ月ほど先まで予約投稿しているので、その時点で起きた事項とシンクロしていると「これ、オレの事?」というような思わぬ誤解を生むことも多々あります。
これが面白いようにシンクロするので自分でも驚きます、まあ未来思考での意識がその時点で記事を書いているので無理もないのですが、ある意味で予約投稿ブログは先読みの思考や未来予測を強化しているのではないかと思うこともあります。
そして精神的にステイディに振る舞える強さが身についてきます、人間は精神的なムラが出るのは当たり前です、でも嫌おうがなしに予約投稿で記事が上がります。
時にはその時点での精神状態と釣り合わない記事もあるわけです、でもそれを受け入れることで現実から逃げることなく自身の問題として思考する姿勢が身についてくるのです。
たかがブログされどブログ、あらゆる面で経営者がブログを書き続ける意味は時間を経るごとに大きな存在になってきます。
そのうち遺言に近いことをブログで書いていくのかも知れません、少なくても門下生は毎日のように読んでくれているようですから。
ブログで私が隠居後にそれぞれが何をするのがベストなのか、語れば24時間でも足りない事が長い時間をかけて指導して行けるのもブログのありがたさかもしれません。
何かを測る道具、ものさし・ゲージ・スケール等々ありますが、人間の評価に対しても「ものさし」という言葉が良く使われます。
ところで、自分の成長度合いや能力などの比較評価を行う場合には何を基準に測れば良いのでしょうか?
例えば他者を比較対照として自分を測ったとしてみましょう、この場合は「自分はあの人より劣っている」とか「自分はあの人より勝っている」などとなるわけです。
他者と比較して劣っている場合は、「あのような人になれるように頑張ろう」と思えれば良いのですが、場合によっては「あの人にも負けてしまう自分は何て駄目なんだ」と逆に落ち込んでしまうこともあります。
逆に勝っている場合は、「この状況を継続し更に成長しよう」と思えれば良いのですが、場合によっては「まあ、この状況ならちょっと手を抜いても大丈夫だろう、まだあの人には勝てる」と慢心して成長が止まってしまうこともあります。
何れにしても、他者との比較は比較対照によって受ける印象が大きく異なり正確でないばかりかリスクも伴います。
あくまでも比較対照は自分自身であって欲しいものです、1日前・1週間前・1ヶ月前・1年前に比べてどれだけ成長したか、何を学んだかどんな経験や能力を習得できたかが重要なのです。
自分自身を「ものさし」にすれば正確に成長度合いが測れるのです、結果的に向上心が常に継続し成長も継続的になされるのです。
成功者とは、常に自分のペースを保ち他者がどうであれ他者のペースに翻弄されることもなく粛々と計画を実行していける人です。
マイペース・マイスタイル・マイポジション、自分をしっかり把握して生きている人は最強です。
人間という動物は、進化の過程で中途半端に知恵が付いた為に何かと厄介な生き物のようです。
自分に不都合な情報を都合の良い情報に刷りかえ、不都合な状況は自分に都合良く解釈します。
イリーガルな行為を適当な理由を見つけて正当化し、そして意味も無く青い正義感を振りかざしたりします。
この程度であれば「生きていくための手段」と言われれば見ない振りもできますが、絶対にしてはならないことは人として看過することはできません。
友や同僚を騙してまで自己利益に走る、一度でもお世話になった人に恩を仇で返す行為をする、これらは一度たりともやってしまったら相手にするのは同類の人間だけでまともな常識ある人たちからは孤立します。
成功とは無縁で一生這い上がれないほどの穴に落ちるでしょう、行動を起こした時点で「人としての超えてはならない一線」を越えてしまったのですから人間の姿をしていても人間ではないのです。
それも他に類を見ない最強の「魔物」と化します、どんなに教育してもそういう人にはもはや何も通じません。
なぜかというと、教育をイジメとアドバイスを自己否定と思い込んでしまうほど正常なる判断ができなくなっているからです。
普段は判りませんがある日突然本性を表します、こういう人を早期に発見もしくは見抜き付き合わないということが重要です、排除ではありません、相手にしてはいけない人なのです。
どんなに生きていくための手段であろうがどんな理由であろうが、「人としての道」を踏み外すことを絶対にしてはならないのです、意図的なら反省して修正の道もありますが天性のものであれば救いようはありません。
性格や考えかたの似ている人は同じような事を言うものです、何気ない会話の中からその人の考え方や弱点までも発見できたりします、それも相手が自ら面白いくらいにヒントを言うのです。
例えば「私はお金では動きません」と言う人は間違いなくお金で動く人です、何故なら本当にお金で動かない人であれば「お金」という言葉は行動思考の中に有りませんから口からは出ないはずなのです、「行動=お金」という事象を常に意識しているからこそ出る言葉なのです。
同じように「他者を意識しない」は人の視線を意識する人、「おしゃれに興味ない」は外見を飾ることに興味有る人が多いです。
意識している事が自然と口から出てしまうのが人間の本質です、特に「私は裏表が無いですから」と何も聞いてもしないのに自ら言う人には要注意です。
まず本音は言わないで建前ばかり、更に話しが深刻になると責任を転換する事が多い人なのです。
自分の意見に同意を求めたり何度も確認を求める人も要注意です、その言葉には嘘や自信のない不確かな情報が含まれている場合が多いからです。
何気ない会話だからこそ人は本音を出しやすいものなのです、その人をだからといって嫌うとか距離を置く方がよいと言っているのではありません。
その人の思考や意識の裏にある事象を理解したうえで、それに相応しいお付き合いを心がけていけばよいのです。
「お金では動かない」と言う人には報酬を用意すればそれなりの事をしっかりやってくれるでしょう、その人の言葉を真に受けて報酬を支払わなかったらそれこそ何もしてくれません。
そして他者には過大な期待を持って互いに傷つくことが無いように相手の言葉に合わせた適切な距離を保って付き合っていくのです、これも独立した大人の付き合い方の一つなのではないでしょうか?
ただし、そこまでして付き合わなくてもいいと思える人であればソフトに自然消滅的に離れていけばいいだけの話しです。
行動心理学者の実験によると、言葉の伝達能力はたったの7%だといいます。
実験結果の正否のほどはわかりません、それは実験の被験者や実験方法にもよってかなりの誤差が出てしまうものですから。
ただ、明らかに言えることは言葉での情報伝達は正確では無いということです、文字となると尚更ではないでしょうか。
例えば野に咲くスミレ、これを言葉で言い表してみてください。
おそらく全員違う回答になります、共通する項目は「紫」とか「小さな花」などの一部だと思います、これが言葉という実に曖昧な伝達システムの本質なのです。
したがって重要なのは、「言葉そのものを信じるのではなく、その裏に在る物事の本質を見抜く能力を身につけること」に尽きます。
更に同じ文章でも人によって受け取り方がまるで違います、これは読んだ人それぞれが自分の経験や感性によって解釈してしまうからです。
万人に受ける会話や文章は当たり障りのないものが多いのも事実です、これは占い師の手法と同じで皆が「そうそう」と思う事を多く取り入れた内容になっているからです、そういう会話や文章は悲しきかな殆ど心に残りません。
例え初対面での印象が悪くても相手の心に残る人間であったり、何時までも覚えていてもらえるような会話や文章、これが実は本物なのではないでしょうか。
「塩の味を伝えたければ舐めさせてみることだ、たったの1秒で伝わる」、これが体験から学ぶ「会得」というものです。