自分のことは、他者を見るように客観視できずに理解するのが難しいものです、でもそれは物理的にも仕方がないことです。
自分の姿を直接見ることはできないし、声だって周囲の人が聞いている声と違うのです。
鏡に映った自分を見てください、右手を上げたら左手を上げるでしょ?
これ、当たり前なのですが鏡に映った自分は左右反転しているのです。
映像が反転すると、左右の脳の思考領域の違いで認識するポイントも変わりまるで別の印象になります。
要は、自分が思い描いている自分と他者が感じている自分はそもそも違うのです。
だから、自分で思ったようにしゃべって思ったようなことを期待しても裏切られることも勘違いされることも多いのです。
普段自分を意識しますか?
道などを歩いているときには自分を中心に見ていますか、それとも第3者的に道を歩いている自分を考えるようにしていますか?
前者は自分を見失いやすい人の傾向ですから注意です、逆に常日頃から他者から見てどう写るのだろうかを意識して行動している人は人間関係もスムースに行うことができます。
人間関係では自分がどう思っているかではなく、相手は自分をどう思っているかが肝要なのです。
自分が解らないという人は、無理に理解しようとせずに第3者的に自分と上手く向き合うことが肝要です。
最近は時間があると過去記事を編集しています、特にビジネス記事なのですが当時は重要な事項と思えていた事が今ではどうでもいいと思える記事が多いことに気が付きます。
それらを書いたベースは後継者に経験から学んだ事を残す意味でした、ただそういった後継者教育は書き物を残したところで何の意味も無いことに最近気付き始めたのです。
学ぶ人は近くで各種の経験を通して学ぼうとします、読んだだけで学べることなど皆無です。
意味の無いものを残すのは私の信条と異なります、そして労せず安全な場所を確保しながらの学びなど何一つ身につくものはありません。
そんなことを考えつつ過去記事をバッサリ削除しています、既に300記事以上は削除しました。
古い廃れた情報は自身にもお荷物になるだけです、前を向いて軽快に生きるには過去の古くなった産物は捨てることです。
経営者としての学びは善悪自身の経験から学び成長していくこと、それが一番効果的なのです。
学ぶ人はどんな事からも学び、学ばない人は何をしても学ばない、学びは学ぶ側の姿勢であって教える側の信条ではないということです。
「まあ何とかなるさ、時が経てば全てが丸く収まる」、こういうお気楽な人をときどき見かけます、しかし多くの場合は期待に反して最悪の状況を迎えてしまうことになります。
「お気楽主義」とか「プラス思考」と言えばそうなのですが、何故この言葉とは裏腹に問題が解決するどころか更に深刻な状況を迎えるのでしょうか?
そこには、大きくその人の心理的なものを見て取れます。
「まあ、何とかなる」という時点で自分の過ちをを擁護してしまっています、つまりそう考えることで一種の逃げを作っているのです、なぜならその方が気持ちが楽になるからに他なりません。
そういう人は自分で動かずに誰かが助けてくれるのを待っています、でも決して思ったような良い状況にはなりません。
もし今までこれで上手くいっていたとしたらラッキーだっただけです、でもこういうことはそう長くは続くものではありません。
若い時には、「まだ若いから仕方ない」と周囲も応援に似た感覚で許してしまうケースもありますが一定の年齢になればそれは通じません。
厳しいようですが、問題解決には逃げずに自ら潔く覚悟を決めて行動しなければ解決の糸口さえ見つかりません。
時間だけが刻々と過ぎていくだけです、そして深刻さは時間とともに増していくのです。
上手くいってない時は、「何とかしなくては」という強い気持ちを継続して持って欲しいものです。
こんな時代はみんな厳しい中で逞しく生きています、辛く苦しいのは自分だけではありません。
「信じていたのに 、こんなはずじゃなかった」、人は期待とは別の結果が出ると時として自分を正当化してしまうようです。
期待とは言い換えれば自分の勝手な思惑や思い込みなのです、そして極論を言うと自分の思惑や思い込みを相手がどう受け取るかも相手の勝手なのです。
結局のところ自分がどんなに相手を思いやってのことでも、それをどう解釈するかも相手次第ということです。
自分には自分流の生き方や思考があるように誰にでも自分の生き方や思考があるのです、自分が考えたように相手が応じないのはそれが一致していなかったと言う実に単純なロジックなのです。
それであるなら自分の思うように自分のペースで自分のやりたいように、自分に正直に生きた方が幸せだと思いませんか?
それでいて互いに目指すものが一致し楽しい空間と時間を共有できる、それが真の親友であり真のパートナーというものではないでしょうか?
相手を思いやろうがそうでないだろうが相手がどう取るかは相手次第、だから常に自分に素直に生きるべきなのです。
何をしたって何を言ったって嫌われる人には嫌われますし、好かれる人には好かれるのです。
これが価値観の一致不一致、そして相性の良し悪しということなのではないかと思います。
更には自分のやりたいようにして嫌われるなら本望というものです、相手を思いやって自分なりに精一杯の努力をして嫌われるより全然ましだと思います。
だから、期待外れの結果になってからの「~していたのに」は言わない方が良いのです。
それを言ったら自分の器が小さいことを認め、共存共栄じゃなく自己利益のみで動く人間だということを皆に宣伝してるようなものですから。
動物は人間に限らず自分にとって好ましくない状況、つまりストレスを感じると本能的にその場から逃避しようとします。
これは精神力が弱いのではなく動物の本能であり、生きていくためにDNAに備わった自己防御システムとも言えます。
強いストレスを感じお酒を飲んだり自分を理解してくれる人に癒しを求める人もいるでしょう、一時的には確かに救われた気持ちになり心地良いかもしれません、しかし現実問題としての自分の環境も状況も何も変わっていません、自分の気持ちだけが一時的に避難しただけです。
現実に戻ったとき逃避する前よりも大きなストレスを感じます、一時的に楽になった分落差が大きくなるからです、そしてまた更に遠くへ長く逃避することになります。
例えば、これは本当は手術しなければならないほど痛んだ内臓を一時的な痛み止めの薬で一時しのぎをして更に悪化させているのと酷似しています。
ではどうすれば良いかというと腹を据えて手術するしかないのです、そうです更なる痛みに耐えて完治させるしかないのです。
痛い思いに痛さを重ねた結果、その全ての痛みから解放されたとき澄み渡るような本物の開放感と清涼感に包まれるはずです。
根本原因の多くは自分の思考と行動です、強いストレスを感じたら逃げ場を求めるのではなく真摯にそのストレス原因に対して向かい合う強さを持つことが重要です。
例えその原因が自分の心の弱さや未熟さにあったとしてもです、自分にあった場合は更に厳しく現実に向かい合う必要があります。
ストレスの根本解消は逆転発想での行動が良い結果を生む可能性が高いです、何時までもストレスから逃げていても根本原因は何も解消されません。
更には、何時までも逃避している自分に失望したらそれこそ二度と現実世界には戻ってこれなくなる恐れさえあります。
昆虫は成虫になる直前の蛹から孵化するときに一生で最も大きなエネルギーを使います、蛹から孵化することができない昆虫は蛹の中で一生を終え成虫になることはできません。
人間も同じように成長し進化する為には、通らなくてはいけない厳しい過程を1度は経験しなければ一皮むけた完全な大人に成長することができないのです。
無責任な失言に言い訳にもならない逃げ口上、自分の過失を認めず責任逃れ、世の中こんな未成熟な大人が増えてきたように思います、これで本当に自身と家族が守れるのでしょうか?