人はどんなことに対して怖さや不安を感じるのでしょうか、実は怖さの本質は「未知なるもの」という存在に対してなのです。
子供の頃は共同生活・勉強・遠足と全ての経験は初めてのことばかりです、でも恐怖感というよりも興味が先に来ます、これは何故でしょうか?
そこにはなんの既成概念や既成情報が無いからに他なりません、つまり何らの既成情報が無ければ全てが無抵抗に受け入れられるのです。
仮に上に兄弟がいて「学校へ行くのが嫌だ」という話を聞いていたとしましょう、その場合は既得情報として「何で嫌なのか」という興味よりも恐怖や不安が先に現れます、そして無意識のうちに入学前から行きたくなくなってしまいます。
これと同様に、大人になって多くの経験をしてきているにも関わらず初めてのケースというものが多々あります。
そうすると、今までのそれに近い経験から容易に想像して「もしかして、**になるのではないか?」という不安が先に引き出されるのです。
話も聞かないうちに、よく調べもしないうちに、過去の経験から本当に良いものであっても色眼鏡で見てしまって敬遠さえするのです。
これとよく似た話で食べ物の好き嫌いがあります、一度不味いものを食べてしまうとその食材そのものをまずいと認識してしまって嫌いになります。
調理方法や鮮度によって味が全然変わります、本来なら自分が大好きな物に変わるかも知れないのにです。
この過去の経験からくる偏見を心理学では「刷り込み」と言います、「トラウマ」もその現象の一つです。
10あるうちの1を知って、残りの9も同じものであると経験もしていないうちに先に判断をしてしまうのです、これを行っているうちは本当の真実は永遠に得ることができません。
一度失恋をしたら怖くて付き合うことができませんか?
数十億分の1人を知って残りの数十億人を同じだと考えますか?
不安だったら自ら積極的に経験して克服するのが尊いのです、起業を志した人はチャレンジ精神が無ければ止めた方がよいです、この先全てが「見えない存在」のものばかりですから。
「リスクも不安も全て自分に取り込み愉しむ」、このくらいの余裕と器が揃って初めて大事を成せるのです。
ビジネスでもプライベートでもお互いに今より良い関係になろうと真剣に思うなら、自分の思ったことをズバリと言い合う方が結果的に良好なる信頼関係を築けることが多いと思います。
誰でも年上や初対面の人には話しづらいものです、しかしある程度の関係が出来たら思い切って思ったことを言ってみたらどうでしょうか?
多くの場合、人に嫌われたくないと思うあまりに相手の考えや行動がおかしいと思っても言いません。
その結果はどうでしょう、嫌われたくない心理から媚を売る行為と思われたり何を考えているか解らずに嫌われることもあります。
結果、真の友情も構築できないしビジネスでの信頼関係も築けなくなるのです。
相手の欠点でも言わなくてはと思ったときは素直に言ってみてはどうでしょうか、最初は機嫌を悪くされるかもしれません、しかし本当に相手を思う気持ちがあれば必ず理解してもらえます。
ビジネスの考え方や会話がまともであれば、「自分の仕事や思考に誇りを持っている」と理解してもらえるからです、理解されれば相手はガラっと態度を一変し強い味方になってくれる可能性も高いのです。
嫌われてもよいと思えば相手は寄ってくる、嫌われたくないと思うから相手は離れるのです。
「良い人に思われたい」という自尊心は必ず言葉と行動に矛盾が生れます、その矛盾が周囲と真の信頼関係を構築できない最大の要因であることを気づくべきです。
自分に自信があるのなら「嫌われても良い」という覚悟が生れます、その覚悟が周囲に伝わったとき自身が気づかないうちに信頼関係が生れていることでしょう。
スポーツを見ていて感じていることの一つに「番狂わせ」というのがあります、「心身共に今までで一番充実しています、」という心強い言葉を残した選手が初戦敗退、逆にノーマークで「調子はイマイチ」と気弱い言葉の選手が突如として優勝することもあります。
私は、代々剣術の家系に生まれた宿命なのか5歳から剣道を教えられ数々の試合に出てきました、そして自分も同じようにこういうことは珍しくないことは経験を通して解っています。
ビジネスでもそうです、事業年度開始直後に最終的に黒字決算を決めてしまうような超特大の商談が決まりかけたとき、何故か「何か上手くいき過ぎるぞ」と妙に慎重になるときがありました。
しかし終わってみると契約締結まで進んでいます、そして見事に大きなトラブルも無く完了しその期は見事に大幅黒字決算で終えることができました。
逆に、充分な調査と充分な準備で「間違いなく取れる」という案件がなかなか決まらず、結果的に長期間振り回されて何も得ずに終わってしまったなんてことも多々あります。
何事も技術や能力に加えて心身の状態は重要です、しかし結果はそれだけではないように思えてきます。
目に見えない何か大きな力の存在が確実にこの世にはあるのです、「運」という人、「流れ」という人、「心」という人、いろいろ感じる人もいるでしょうがそう単純なものではないと思います。
私は、それが何であるかはいまだに解りません、ただ現実として事実は事実であり存在は認めざるを得ないと思っています。
前向きな悩みとはある種の葛藤だと思います、それは期待感と不安との葛藤でありどちらか一方であれば悩むことはありません。
悩む状況のときには誰かを信じたいとか、もしかして上手くいくかも知れないという期待感の裏側に不安や不信があるのです。
私の場合は買い物では悩んだら買わないことにしています、仕事なら請けないことにしています、人であれば取り合えず付き合いを保留することにしています。
それを一時の勘違いだとして行動に移すと必ず後で後悔することになるのです、考えれば本当に信じられる事や信じられる人であれば心が嬉しいだけで何をおいても優先するし不安なんてどこにもありません。
悩みとは私が思うに自身の心に正直にブレーキをかけているのかもしれません、悩んだときは現実を直視することが肝要だと思います。
夢のある仕事、夢のある計画、でも現実に何が具体的に起こるのか?
優しい言葉、力強い言葉、でも現実にその人が何をしてくれるのか?
現実とは真実です、言葉や見掛けに心動かされるのではなく結果はどうなったかが全てなのです。
十五歳を「志学」、三十歳を「而立(じりつ=立身)」、四十歳を「不惑」、五十歳を「知命」、六十歳を「耳順」、七十歳を「従心」という年齢の呼名が有るのはご存知でしょうか。
これは孔子論語の有名な一節から来ているのです。
多くの人も、この一節はご存知かと思いますが復習を兼ねて再度覚えていただければ幸いです。
子曰わく、
我十五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳順う(したがう)。
七十にして心の欲する所に従って矩を踰えず。
<翻訳>
私は十五歳の時に学問に志しました、三十歳にしてそれまでの学びが固まり立身できました、四十歳で事の道理が理解でき迷わなくなりました、五十歳で自分の天命(使命)を知りました、六十歳で他人の言葉を素直に聞け自分の振る舞いに生かせました、七十歳で心の思うままに生きても人の道を外すことがなくなりました。
これを改めて今じっくりと読み考えるに、「なるほど!」と素直に受け入れられます。
少なくても10年ほど前までは、「それは孔子自身のことだから俺のことではない」程度にしか思わなかったかもしれません。
でも今では心に響いて止みません、これこそが人間として生まれてきた最高の成功では無いでしょうか?
60歳にして他者の言葉を素直に聞けるようになった、私の今の心境にマッチしています。
気付いた時が旬です、それに素直に従うことが肝要です。