「縁」(えん、えにし)とは本当に不思議なものです、改めて「何故、この人と出会い今この関係になっているのだろうか?」と思い起こすことがあります。
「縁」の本質を考えてもその正体が解らない正直な話です、たまたま居合わせた人、でも話しかけなければ見ただけで終わりです、話したところで共通の話題や興味を引かなければ話しただけで終わりです。
話が合ったところでそれが付き合いが始まるかはまた別の次元です、付き合いが始まったところで信頼関係が構築できるかも更に別の問題です。
こうして考えると本当にものすごい確率の組み合わせによる出会いということになります、ただ「縁」有って出会い互いに気持ちも通じたとしても短期間でそれが終わってしまうこともあります、これはやはり「縁」が無かったと思わざるを得ません。
「縁」とは恐ろしいほどの偶然や必然、きっかけやタイミングなどものすごい条件をクリアされて確立していると思います、たとえ一目惚れだとしても一瞬の時間に多くの条件が揃って生じるのです。
「縁」有っての出会い、今の損得しか考えられない人はおそらく「縁」を本当に理解できていないのです、そして未来の大きな「その縁による恩恵」を自ら放棄しているのかもしれません。
近年の研究により、女性にしか嗅ぎ分けられないという男性の汗に含まれる性フェロモンの存在が明らかになりました。
それは自分のDNAと遠いDNAを持った男性の汗は「良い匂い」として感じ、自分と近いDNAを持った男性の汗は「嫌な臭い」として感じるというものです。
これは多くの動物にも見られ、これによって健全なる種の繁栄を行うという生命本能ともいえます。
またこの嗅覚は通常の匂いの嗅覚とは別のものであり、女性にしか存在しない第2の嗅覚ともいえます。
話は変わりますが、人間には確実に「匂いの嗅覚」とは別の嗅覚があるように思います。
それは「何か利益になるかもしれない」という匂いを嗅ぎ分ける嗅覚の存在で、これも一つの人間の持つ心理的な生存本能だと考えられます。
昔から「人の集まる処は必ず繁盛する」と言われています、企業も今の状態や状況が何であれ、多くの人が訪れるところは何れ上手くいき成功を収める可能性が高いです。
例外として利益を得ようとする他者依存の人ばかりが集まるところは当然儲かりません、何故かと言えばお金を落とす人や回す人がいないからです。
他方、人がまったく寄り付かない企業や人は今がどんなに上手くいっていても必ず低落していきます。
これはいったい何でしょうか、やはり人間には第2の嗅覚が有るのだと思います、それが第六感なのか過去の記憶から来るものなのかは解りません。
多くの人が集まる企業、多くの人が集まる人、本能的に何かに惹きつけられていることは間違いありません。
海外からの外国人観光客数が年々増えていますが、それに伴い受け入れ側の問題も徐々に浮上しつつあります。
特に宗教に関していえば、タイやベトナムのような仏教国にインドネシアやマレーシアなどのイスラム教国といったように各国多種多様な宗教の下に文化が形成されているため、受け入れ側はそれぞれの宗教上の習慣やしきたりを理解し対応する必要が生じます。
最近よく耳にするのが「ハラール」という言葉です、これはイスラム教の戒律でイスラム法に基づいた食材の処理方法を行っているという認可制度のことを指します。
イスラム教徒にとってハラールであることは戒律に沿って生活していることであり、神に対する信仰心の体現となる重要な行為なのです。
ハラールを守れないことは彼らにとって「罪を犯す」行為となり死活問題ともなります、ところが「ハラール」が日本では普及していないという現実があります。
来日の伸び率が上がっているマレーシアやインドネシアなどの来日者にとって、ハラール料理のお店が少ないということは「食事ができない」ということにもなります。
せっかく日本を訪れたいと考えているアジアのイスラム教徒がいたとしても、制約がありすぎて旅行ができないことになります。
実はこの事態を避けるために近年では「ハラール食材」が量産されています、ハラール食材が増えれば受け入れ問題が解決するという単純な発想からなのでしょう、しかしここでよく考えていただきたいことがあります。
「ハラール」はただの認可とは違うのです、その根底に流れる宗教的背景や生活様式をよく理解したうえで導入しなければ真にハラールであるとは言えないものになります。
イスラム教の経典「コーラン」の中では、「あなたがたに禁じられたものは、死肉・流れる血・豚肉・アッラー以外の名を唱え殺されたもの・絞め殺されたもの・打ち殺されたもの・墜死したもの・角で突き殺されたもの・野獣が食い残したもの・石壇に犠牲とされたもの・籤で分配されたもの、これらは忌まわしいものである」 とあります。
コーランが「不浄なものとして食べてはいけない」ものの一部ですが、イスラム圏以外の国民はこれを形骸的にとらえてしまいがちです、つまりマニュアル化しそれに従うだけです。
ここで本当に考えるべきことは、真の「おもてなし」を打ち出している国であればハラールという認可以前にイスラム教では何が大切にされているのか、何が禁じられているのかと相手のことをもっと深く理解したうえで自分たちはどうするべきかを考えることが必要ではないかと思うのです。
それであれば飲食店としてハラールの認可を受けていなくともハラール食の対応は可能であるし、海外からくる来訪者が日本人に最も求めているのはこのような本当の意味での思いやりの心ではないでしょうか。
昨今では何でもマニュアル化することがもてはやされていますが、そもそも「おもてなし」の本質とは何かを正しく理解しようとする姿勢が一番重要なのではないかと思うのです。
価値観の問題で質か量かという選択肢はどのカテゴリーにも存在しています、この価値観の問題は特にSNSを見ていてつくづく思い起こします。
人によっては友達やフォロワーを数千人まで伸ばしている人もいます、しかしその人達の記事に1%未満の人しかアクションを起こしていません。
対して数十名しか友達やフォロワーがいなくても、その人の書き込みに30%を超える人がコメントなどの具体的なアクションを起こしています。
これは「有益性」というカテゴリの問題であり、人間関係は友達やフォロワーの数ではなくて付き合いの質であることが解ります。
その意味で数だけ増やす事に専念している人は何のためにやっているかというと、情報をスプレーしているように見えて結果的にSNSを運営している会社やその情報で利益を得る人達に貢献しているだけとも言えるのです。
もっと言えば最も運営会社にとって歓迎すべき利用価値の高い人と言えます、利用しているつもりで利用されている、この問題はあらゆるところで見られる現象であり極めて面白い結果をもたらします。
成功したいと思うなら何事も活用しても利用されないことが肝要です、結局は本質を見抜く眼力を持っているか否かが問われる事項です。
そして、意味も無く数だけを追っている人はどんな人と繋がっているかなどは見る人が見ればすぐ解ります、だから本当に利益をもたらせてくれる本物の人は寄り付かない可能性が高いのです。
真にビジネスに直結する人はSNS人脈が数千人もいたとしても、時間的や物理的に見てある一定の期間内には10人が限界です、逆に言えばリアルでの付き合いで全ての事項が足りている人はSNSの必要性は無いとも言えます。
厳しいのですがこれが現実です、何時の時代もどの世界でもビジネスを考えるなら数を追うのではなくて質を求めることが肝要かと思います。
思考や行動に関して咎めると、「余裕が無くて」という言い訳が返ってくる人がいます。
人は余裕が無いという理由からその思考や行動を行うのではないと思います、「余裕が無い」というのは事実かもしれません、しかしその思考や行動はその人が本来持っている独自の個性なのです。
人は誰しも良い人でいたいという欲求があります、経済的にも精神的にも余裕が有ると意識して隠し持った本能を表面意識でカバーすることができます。
それが経済的にも精神的にも余裕が無くなると、それを意識した脳は突然生きるための本能を優先して思考するようになります。
そこで先の隠し持った本能が表面意識でカバーできなくなり表像化するのです、これが「豹変する」という現象です。
本当に経済的に苦しくて食べるにも苦労している人が、他者に無心するでもなく何とかかき集めては僅かなお金でも返そうと努力する人もいます。
人を言葉でごまかそうとすれば遺恨を残します、人は損得を考えるという例外を除くと基本は言葉では動きません、言葉ではなく姿勢に心が動かされるのです。
自身の苦労話や辛い事実をSNSなどで訴え続ける人、読んだ人は建前でコメントを返すだけでそれに心を動かされる人は誰一人としていません。
言葉を発するだけまだ元気なのです、本当に困窮していれば言葉の一つも出ません、だから言葉が出ている人に対して重く考える必要もないのです。
「いざというとき、その人の本質が表像化する」、困窮したピンチ状況こそ本当の自分と向き合える絶好のチャンスなのです。
自分と真摯に向き合える時など長い人生のなかでそう多くはありません、「ピンチはチャンス」とは本来こういうことを指しているのではないでしょうか。