「私には敵はいません」と豪語する人がいます、ところで敵がいないというのは自慢することなのでしょうか。
そもそも敵とはなんでしょうか、辞書によると「戦わなければこちらが滅ぼされる可能性のある者」とあります。
つまり、敵が意味するものは相手から見るとこちらは脅威の対象になっているということです。
ということは逆説的に考えると誰にも脅威を与えることができない、つまり相手にされていない人が「敵がいない人」ということになります、これは何を意味するかというと「どうでもいい人」ということになります。
昔から「デキル男には7人の敵がいる」とも言われます、敵の1人や2人いて当然、それだけ存在感を示し実力が備わっているという証拠なのです。
また、敵という存在は第三者との戦いを避ける意味では時と場合によっては最強の味方にもなります、つまり敵の多い人というのは実は強い味方も多いのです。
逆に敵がいない人は強い味方もいません、そうです「どうでもいい人」だからに他なりません。
敵を好んで作る必要はありませんが敵が現れたといって騒ぐ必要もないでしょう、敵が現れたということは自分の成長を認められた証拠です、あとは対処を誤らなければ場合によっては強い味方になってくれるでしょう。
逆に味方だと思って慢心し横柄な態度を取っていると、それこそ「最強の敵」を作ることになります。
こちらの戦略も内部事情も全て把握している「最強の敵」、それは今の身内に他ならないのです、ここをよく理解しておかなくてはなりません。
IPO(株式公開)したベンチャー企業の社長さんの話しで「なるほど!」という面白い話しがあります、それは「IPOを発表直後に急に知人が増える」という話しです。
知人といっても本人はまったく知らない人のようです、商談などで「そういえば○○さんが社長のことを良くご存知でしたよ」というような会話がすごく増えたのだそうです。
話しを聞いてみると会った記憶も話した記憶も会社名や名前さえ知らない人なのだそうです、おそらく新聞や経済誌などで記事を読んであたかも知っているということを他者に話しているのではないかと推測しました。
世の中には「ネームドロッパー」という人種がいます、何かにつけて有名人の名前を出す人です、そして自分の豊富なネットワークを誇示するのです。
しかしこれは絶対に上手くいきません、何処かで絶対にばれます、その時は誇っていた人脈の多さという強みが似非であると判断され信用が急落します。
もしかしたら本当に会っていて当人に忘れられているのかもしれません、しかし忘れられるような人なのだからやっぱり知人ではないのです、人脈とは「知っている」という程度では何の意味もありません。
人は本当に有効なる絶対的な人脈はまず他者に話すことはありません、何故ならバックボーンというべき存在なら表面に出すことなく互いに支え合う関係を言うのですから公にはしないものなのです。
しっかり計画して成功を確信したことでも、突然上手くいかなくなることは多々あることです。
上手くいかなくなった理由を考えてみると、周囲が非協力的だった、相手に何回も説明したのに理解してもらえなかった、協力者のミスがあった、社員やパートナーが思うように動いてくれなかったなどいろいろ思い当たることが出てくると思います。
しかしこの全ての原因は自分にあったと考えることで、その後に見事なリカバリーが生まれます。
自分の周囲に起こる事象は偶然的に起きるものではありません、そこには必ず自分の思考からくる行動が関与しているのです、いわゆるこれが因果応報というものです。
ここで重要なのは起こったことを否定的に見て無理やりに関係修正を行うことではありません、最も重要なのは状況把握です。
周囲にどういう形で協力を要請したのか、相手への説明の方法や内容は的確であったか、協力者や関係者への情報開示はタイムリーに且つ正確に行われていたか、パートナーの選択に問題は無かったかなど、これまでの経緯を思い起こして考えることです。
そして、結果を潔く省みて冷静に軌道修正する勇気が人を成長させるのです。
物事はきっかけがなければ起こりません、そのきっかけは全て自分が起こしたことなのです。
最後に一つ、思わぬ状況になったとき、重要なのは起きてしまったことをあれこれ考えるのではなくどのようにリカバリーするのかなのです。
どんなトラブルもリカバリーが上手くできれば、それは失敗ではなく「成功のための一つの試練」と化すのです。
成功者は常にリカバリーを考え行動を起こします、だから失敗などは無縁のものなのになるのです。
責任や義務は人として忘れてはならない重要事項です、しかしこれに縛られ自分のやりたいことができなかったらどうでしょう。
大切な人を幸せにしたいのは極普通の人の感情です、しかし大切な人を幸せにする以前に自分が幸せでなかったらどうでしょう。
相手は、どんなに愛情を注がれたとしても幸せとは思えないのではないでしょうか?
恩を返すというのも同じことです、恩や義理にとらわれ自分の思ったように生きていなければ対象の相手は逆に窮屈に感じるものです。
恩を返すとはどういうことでしょうか、恩を受けたその人に直接返すことだけが方法ではありません。
まず自分が思ったように生きて幸せになることで周囲も安心します、それが皆が最も嬉しいことであり本当の意味での恩を返すということではないでしょうか。
自分目線の直接的思考では人の真意はどんなに考えても絶対理解できません、それは自分勝手な偽善に他なりません。
他者の真意を理解するためには、相手を自分に置き換えて他者視線での思考で考えてみることです。
物事には必ず「きっかけ」というものがあります、常に今の行動が将来への「きっかけ」となります、これが「因果応報」というものです。
つまり自分が行動した結果が良し悪しに関わらず必ず自分に返ってくるということです、更にそれではと何もしなければ何もしなかったという結果が返ってきます。
私は、起業する前にヘッドハンティングされ外資系企業でフリーのシステムエンジニアを2年半、さらにその前はサラリーマンで3年間に4社も会社を渡り歩きました。
起業は弟子が増えてきて個人事業主では限界を感じた為に致し方なくというのが本音で、そこに志や夢などは微塵もありませんでした、在ったのは必然の流れだけです。
それが「今の私」です、良いことも悪いことも含めての結果です。
当たり前のことですが、もしもこの過程がちょっとでも違ったものだとしたら「私の人生」は確実に別なものとなっていました。
もっと言うと、「私の人生」は両親によって「きっかけ」を与えられました、更に言えばご先祖様によってこの世に生まれるきっかけを貰っているわけです。
与えられた人生、その後の人生、全て様々な人との係わり合いによって成り立っています。
「今の私」がどんな状況であれ、こうして平和に生活できている状況こそが幸せだと思わなければなりません。
「きっかけ」から過去の行動まで全てがその報いとして現在の自分に降りかかってきます、したがって今がどんな状況であれ全て自分の責任なのです。
他者に薦められたことでも他者に与えられたことでも、それを選択したのは他の誰でもない自分です。
であればそれを潔く素直に受け入れること、そして自分で選択した人生を全うするしかないのです。
それが「覚悟」であり行動で表示するのが「姿勢」というものです、「常に姿勢を観られて覚悟が問われる」、自立(自律)した大人の集団とはこういう世界なのです。