若い頃の戒めは色恋にある。
中年期の戒めは争い事にある。
老齢期の戒めは儲け話にある。
孔子の教えは極めて的を得ていると思うばかり。
「従心」期の私は心の趣くままに道楽事に没頭し、
大自然と対話しながら充実のセカンドライフを満喫することにしよう。
これまでの人生を省みながら幾許もない時間を日々淡々と暮らし。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
経済界には昔から伝わる法則がある。
水は高い処から低い処へと流れ、
お金は低い処から高い処へと流れる。
事業家になってこの意味が正確に解るようになった。
そして「高い処」という明確な場所も知った。
成功したいと思うなら、
先ずは「高い処」に住むことを目指すことだ。
「高い処」に城を築けば自然に成功へと導かれる。
言っておくが当然に「高い処」とは物理的な場所ではない。
「高い処」の住人と10年も苦楽を共に過ごせば、
明確に理解できる特別に高貴な住環境である。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
お金に執着しない人は、
お金が貯まることはなくてもお金に困ることはない。
何故ならいつも何処からかお金が回ってくるから。
本当に不思議な事実がここにある。
逆にお金に執着する人は回ってくるお金もない。
使うから回ってくる、
使わないから回ってこない。
極めて経済循環法則とはシンプルである。
お金だけではなく見えない各種支援も含め、
与える人には全てを与え、
与えない人には一切与えない。
ある意味で天は一貫として万人に常に平等なのだと思う。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
子曰く「四十にして惑わず五十にして天命を知り、
六十にして他者の話を素直に聞けるようになり、
七十にして心の欲するところに従えど矩 (のり) をこえず」。
その歳に相応しい正しい生き方を説いた孔子の教えである。
いい歳をして尚も自身の存在意義と使命に気付かず、
「何故ここに居る?」の質問にも明快な回答が出せない。
目的思考ではなく生活の為の手段思考の人が多くなった。
何事にも意味と理由が明確に存在している。
自分が生まれてここに居る意味も理由も当然に在る。
その意味と理由を明確に理解できなければ、
今優先すべき事項と付き合うべき人も当然解るはずもない。
ただただ自分と家族の生活の為に嫌な労働を自身に課して、
働く為に生き続ける人生が意義在るものなのだろうか。
お金を得る手段の労働と、
理想の実現を目的にしたビジネスとは180度異なる。
手段に甘んじているから人生の疑問も出ない。
「何故ここに居る?」の質問に明快に回答できない人に、
他者の気持ちも存在意義も理解できるわけがない。
そしてあらゆる存在に感謝することもないのだろう。
正直あまり関り合いたくない人である。
価値観と互いの存在意義を共有できない人は、
きっと同じ時空を生きながらも別の次元に住む人だと思う。
そう考えると妙に心が楽になるのを覚える。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
何が愉しいのか辛いのか。
この価値観の不一致ほど負の連鎖を生じさせるものはない。
他者の未来構想を聞いて自身の将来ビジョンを思い描く。
経験した事がない別世界の知識とノウハウを学べる。
自分の個性と客観的に向き合うことができる。
そして同じ時空間を過ごして信頼を高め合う。
私はこれほどの愉しみも喜びも他には無いと思う。
そんなことより今この瞬間の気分だけを思考しては、
愉しいのか辛いのかを判断する人がいる。
打算的な損得勘定だけで、
他者の貴重な時間を奪い愉しめないことに散財する。
価値感の不一致はどんなに歩み寄ろうとしても、
互いを理解し信頼し合えることは永遠にこない。
愛情を嫌悪に愉しみを辛さと感じるのだから。
一緒に歩むことができない典型的な人であり、
双方にとって距離を置くのが懸命である。
互いの苦楽を共通認識として共に愉しめない人と、
同じ方向を向いて同じ夢を語れる日は永遠にこない。
100歩譲ったとしてもビジネスライクが精いっぱいである。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。