孔子曰く「教えなかったことなど一度もない」。
一度でも門をくぐればそこにあるのは師弟関係。
何をもって教えとするのか、
何を教えるのかは師匠の意の自由。
それを学び取るのが弟子の覚悟。
何も教えず何も語らないのも教え。
必要なのは最後まで信じること。
理不尽なことも含めて全てが学びである。
何が起ころうが何を見ようが、
最後まで信じきる覚悟が無ければ、
その門をくぐるべきではない。
利益を求めるだけの入門など以ての外。
覚悟の無い入門は師弟共に不幸である。
※耳順(じじゅん)とは、孔子論語の「六十にして人の話しを素直に聞けるようになった」という節を起源とする60歳代の呼び名である。
じっくり検討を重ねたアイデア。
蓋を開けてみるとほとんどが使えないものである。
切羽詰った状態でふと頭に浮かぶアイデア。
選択肢が無いからクリティカルなものとなる。
時間が有りすぎるということは足りぬと同じ、
意外と考えがまとまらないものだ。
ギリギリまで何もしない。
多くの時間を状況把握と情報収集に努める。
アイデア策定は短期決戦で集中的に行うことだ。
※耳順(じじゅん)とは、孔子論語の「六十にして人の話しを素直に聞けるようになった」という節を起源とする60歳代の呼び名である。
他者が敷いたレールの上を走る列車。
予め用意された乗り物を使って何をするのだろう。
他者によって計画された物事は、
楽しさは半減し面白さは皆無である。
残るはそれを選んだ義務感と責任感だけとなる。
一番楽しくて面白い事は、
自分でレールを敷いて自分の列車を走らせることだ。
誰も考え付かないことを自分自身でやることだ。
少なくてもリスク無しの他者の列車に乗っておきながら、
その列車の良し悪しを評価すべきではない。
※耳順(じじゅん)とは、孔子論語の「六十にして人の話しを素直に聞けるようになった」という節を起源とする60歳代の呼び名である。
「幸福」とは「幸」と「福」から成る言葉。
「幸」とは他者から与えられる褒美。
「福」とは自分の努力で作り上げる褒美。
「幸」を得るにはどんな人と関わるかという心眼力が肝要。
「福」を得るにはどんな生き方を通すかという覚悟が肝要。
「幸福」を得られるか否かは全て自身の徳次第である。
※耳順(じじゅん)とは、孔子論語の「六十にして人の話しを素直に聞けるようになった」という節を起源とする60歳代の呼び名である。
小さな失敗を何度繰り返しても、
学べることは取るに足りないものばかり。
どうせ失敗するなら立ち直れないほどの大きな失敗をすることだ。
おそらく世界が一変するほどの学びが得られる。
成功者の多くは過去にデフォルトするほどの大失敗をしている。
無の状況になって大きく深い穴の中で悟りを開く。
一度無になれば全ての本質を知ることができる。
決してぶれない鉄のハートを手に入れられる。
小さな失敗では一瞬落ち込むだけで何も得ずに終わる。
大きな失敗は景色が一変するほど自分が変わる。
復活したときの清々しさは例えようのない幸福感に包まれる。
※耳順(じじゅん)とは、孔子論語の「六十にして人の話しを素直に聞けるようになった」という節を起源とする60歳代の呼び名である。