夢とはいつかは覚めるのが常である。
人はよく「夢は必ず叶う」と口にする。
人より数倍の努力をすれば実現するのかもしれない。
ただし私欲の塊なら本当の「夢」で終わる。
確かに「夢」は人に勇気を与え、
萎れた心が楽になるかもしれない。
ただ努力を怠った「夢」は必ず「夢」で終わる。
夢を叶えたいのなら夢に向かって努力するしかない。
常日頃から夢に相応しい自分磨きをすることだ。
※耳順(じじゅん)とは、孔子論語の「六十にして人の話しを素直に聞けるようになった」という節を起源とする60歳代の呼び名である。
たかがブログ、されどブログ。
文章とは恐ろしくも書き手の人間性が露見する。
自身を誤魔化そうとしても、
誤魔化して生きている人だと解ってしまう。
善い人を演じても偽善的な人だと解ってしまう。
その人のリテラシーが見事に反映され、
例えデキル人をアピールしたとしても、
文章で大いに引かれてしまう。
リテラシーが表面化するブログ、
自身の全てを曝け出す覚悟が問われる。
口語表現は誤魔化しが効いても、
文語表現は一切の誤魔化しは効かない。
※耳順(じじゅん)とは、孔子論語の「六十にして人の話しを素直に聞けるようになった」という節を起源とする60歳代の呼び名である。
意味の無い1万人の人脈は単なる知人に過ぎない。
人脈も金種も持っている1人を得れば全てが解決する。
多数の人を得ようと思えばそれに合わせて無理をする。
自分に無理して得たものは本物ではない。
本物ではないから何の助けにもならない。
たった1人で良いから有益な人と信頼関係を築くことだ。
自分に自信が在る人は数を欲しがらない。
自信がない人ほど数に拘る、
誇るものが無いからに他ならない。
物事は数ではなくあくまでも質の問題である。
数にこそ価値が有るのだと言うなら、
たった1人の有益な人は、
豊富な人脈と資金を一瞬にして用意してくれるだろう。
※耳順(じじゅん)とは、孔子論語の「六十にして人の話しを素直に聞けるようになった」という節を起源とする60歳代の呼び名である。
お笑い番組を観て、
気の知れた仲間と飲んでしゃべって、
愛猫たちの滑稽な仕草を見ては、
心の底から大声で笑う。
頭に浮かぶ憂い事は何も無い。
ただただその時空間を愉しめる。
心の奥底から自然に笑えるって、
ある意味での幸福の証明なのかもしれない。
※耳順(じじゅん)とは、孔子論語の「六十にして人の話しを素直に聞けるようになった」という節を起源とする60歳代の呼び名である。
どんな情報をいくら持っていても、
どんな人といくら親しくても、
手に余るほどのお金を得ていても、
それ自体には何の価値もない。
持っている情報をどのように発信するか、
持っている人脈の能力を最大限に引き出せるか、
持っているお金を何処へ回せるか、
持っているものを有益に活用できて初めて価値が出る。
何かを幾ら持っていたとしても、
それは自分の為だけの満足感でしかない。
他者の為に使ってこそ持てる者の真価がある。
集めることに固執する者は野心の塊になる。
情報も人脈も財産も何もせずして利益を生むことはない。
上手く活用できる者は全てが有益に機能する。
※耳順(じじゅん)とは、孔子論語の「六十にして人の話しを素直に聞けるようになった」という節を起源とする60歳代の呼び名である。