最近の私はというと事あるごとに良い意味では「世間が優しくなった」と思う反面、あまり良くない意味では「いい歳になったな」と自覚させらることが多くなりました。
つい先日の事です、いつもの出勤途中の交差点でいきなり私の通行を遮るように自転車が止まりました、はっと気付いてよく見ると警察官が目の前にいます、「赤ですよ」と声をかけられて「あ、すみません」と後づさりする私に笑顔で「今日は暑くなるから水分をちゃんと摂って下さいね」と言うのです。
また口座の住所変更で銀行に行った際は、いきなり窓口で要件を言う私にお客様係の人がさっと近づいてきて「この番号を呼ばれたら窓口に来て下さい」と番号札を渡されソファーに通されました、座るや否や手続きの書類を持ってきて渡されたのですが「眼鏡を忘れてきて字が小さくて見えないよ」と言うと名前以外の全てを口頭から代筆してくれました。
新型コロナウイルスのワクチン接種では私よりも年上かとおもう看護師さんにまるで子供に話しかけるような口調で丁寧にワクチンとその後の対応の説明をしてもらい、やはり名前以外は全て口頭から代筆してもらいました。
ビジネスシーンではいまだに怖いとか厳しいと言われるのにビジネスを離れたプライベートシーンでは既に雰囲気はいい歳したおじいちゃんなのだろう、そういえば自宅マンションのエレベーターや街を歩いているときに昔は外国人以外は誰も声をかけてこなかったのに、最近ではいろんな人が気楽に声をかけてくるようになりました。
何でしょうこの複雑な感覚は、でもまあ嫌な気持ちにはならないので善しとしましょう、確かに「おじいちゃん」と呼ばれてもおかしくない歳になったのだから。
かれこれ15年以上も前の話ですが大事に使っていた重厚なクリスタルガラス製の灰皿を落とて粉々に割ってしまったことがあります、落としたくらいでは割れないはずのぶ厚いクリスタルガラスですがその時にはたまたまウィークポイントに力が加わり割れたのでしょう、見事にバラバラになってしまいました。
この灰皿はメイン法人の設立時から15年間ほど応接室で使っていた物でした、当時は応接室に灰皿を置くのが常識化していました、今ではとても考えられないことです、時代に合わせて社内が喫煙室以外は全面禁煙となった後に私の家でずっと大事に使われてきたのです。
みなさんはこんな時には何を考え何を思うでしょうか、私は冷静に「自分の中の一つの歴史が終焉した」と考えました、オーバーだと思われるかもしれません、でも意外にも心穏やかにそう実感できたのです。
この灰皿を見ては設立当時の状況やバブル期に最高潮に達した栄光を思い出していたのです、そんな思い入れがある灰皿は私にとってそこに在るのが当たり前だったのです、自分の中のある種の拘りが消えました、壊れてしまった灰皿を拾い集めては新たなる開かれるであろう未来を歓迎したいと心からそう思えたのです、そして当時拒み続けていた上場企業の傘下に収まるという提案を受け入れる一大決心をしたのです。
ここでみなさんに提案です、もしも忘れたい記憶があるならどんなに高価で貴重なものであってもそれに関する全ての物を捨ててください、大事に持っている間は何時までも未練がましく過去の記憶にしがみついてしまいます、逆に捨てられないと思うのであればその事実を無理に忘れようとしないことが賢明です、きっと未来において何か意味があると思うのです。
私が二十歳ごろだったか父が厚さ10センチもあろうかという一枚板の大きなどっしりとした寄木の応接テーブルを特注しました、そのテーブルが家に届けられリビングに設置されたときたまたま私は夏休みで実家にいました。
タバコを吸いながらテレビを観ていたのですがテレビに集中しタバコがテーブルに転がったのに気がつきませんでした、そして大きな焦げ痕をつけてしまったのです、そう父がまだ一度も見ていないうちにです、まず母が気がつき動揺しました「お父さん、なんて言うかな?」と青ざめた顔で言います。
そして父が帰宅で緊張の報告、しかし父は見るなり「おお、いい景色だな!」と言うのです、父はその後すぐそのテーブルに合うガラスの敷物を作らせテーブルに敷きました、そして私の作った焦げ痕は修理されることなくそのまま永久保存されることになったのです。
父はそのときこう言いました、「わざとやったのなら許さない、そうじゃないならそれは自然だ、このテーブルは完成したときにそういう運命にあったのだから景色として楽しめばよい」、この言葉はいまだに頭から離れません。
そして、どんなに大切なものであっても不可抗力によってできた傷やシミはすべて自然であり運命だったと思うようにして受け入れられるようになりました、形あるものはいつかは壊れるのです、それが早いのか遅いのかということだけなのです、それであればできてしまった傷やシミは自然の景色として楽しめばストレスを抱えることなく笑っていられます。
今も愛用している軽くてお気に入りのラムの皮ジャン、背中や袖には愛猫の引っかき傷や小さな噛み穴が無数にあります、でも私はこの傷だらけのジャンパーが大好きでいまだに愛用しています、父から教えてもらった記憶はほとんどありません、でもこの教えはその後の私の物事の考え方に大きく影響したのです。
さてこのテーブルですが理想郷完成時までには実家に置いてあるオーディオ器材やレコードと共に持ってこようと目論んでいます、それを見ては心穏やかに暮らしたいと思うのです、また同じ時期に父が特注した長野県の名木であるヒノキの一枚もので創作された宮大工職人が手作りしたという重厚な家具が幾つもあります、これらも全て持ってきましょう。
新型コロナウイルスパンデミックが生んだ社会現象の一つである「ソーシャルディスタンス」ですが、この裏で各種の新たな社会現象が発生する兆候が起こっています、その一つが訴訟の増加です、これまで証拠不十分で泣き寝入りしていた人が今後は堂々と訴訟を起こすようになります。
その確固たる証拠というのがWeb会議の録画やメールです、商談や会議がWeb会議で行われるようになっています、これらは全て録画されていると思った方が良いでしょう。
逆に言えば録画さえしておけばいざという時の証拠に使えるということです、リアルでの商談などでは常に後々問題が発生した際に「言った、言わない」の論議がされます、この問題が全て明白な形で保存されるようになります。
商談の記録だけではなく社内のパワハラやセクハラも同様に記録として残ることになります、更にはリモートコンサルティングやリモートコーティング、もっと言えばプライベートでの会話も同じことです。
誰に対しても後ろめたい事が何も無く、正々堂々と生きている人にとってはメリットが高くなりますが相手によって言う事をコロコロ変える人やその場凌ぎの嘘や誤魔化しで生きてきた人には何とも生きづらい世の中になっていきます。
リアルが中心だったこれまでの時代からテレワーク中心の時代に変わってきます、この変化によって生きやすくなる人と生きづらくなる人とに分かれます、この時代の変化はあなたにとってはメリットになるでしょうか、その答えはそう遠くないうちに明確に現れるでしょう。
どんな時代になろうがどんな新たな秩序が生まれようが常に自分を律して正しい人の道を歩んでいる人にとっては不利になることは有り得ないのです、「一時的にどんな理不尽な状況になろうが最後には正義が必ず勝つ」、門下生に常に言ってきた言葉です、不正や誤魔化しは何時かはどこかで想像を越えた方法で曝け出されることになるのです。
この歳になっても自身の中で明確に理解できない事が本当に多々存在しています、特に人の心や感性は自身だけではどうにも解決できない事項であり時に諦めもつかないほどのストレスを感じることもあります。
その人独自の感性はこれまで生きてきた中で身についたものです、必要に迫られても修正するのは極めて難しいと思います、結局のところが感性が合わない人とはビジネスでもプライベートでも苦痛を感じてしまう為に遠ざけるようになってしまいます。
その人が例え仏様のような立派な人であろうが人柄が良くて誰からも好かれていようが、感性の不一致はストレスを感じるのですから割り切ろうにも割り切れないものがあります、物事の感じ方は判断や行動に直結します、感性が合わないとベクトルが揃わず結局は足の引っ張り合いをして互いにブレーキになってしまう結果になります。
逆に感性が一致している人だとベクトルが一致し組織ともなれば個々の経験や能力などは無関係に恐ろしいほどの巨大な力を発揮します、「経営者の最大の仕事は人事」と昔から言われますが納得の言葉だと思います、組織のベクトルが一致しないと、何事も優先事項とタイミングが合わずに良い流れが来ても自然消滅か支流がたくさんできて分散してしまい上手くいきません。
ここぞの時と待ちのタイミングも合わず待ちくたびれた方は別の事に専念するようになり誰も幸福にならないのです、私はこの「感性」を凄く重要視しています、合わないと判断すれば関係を断ち合うと判断すれば経験や能力に関係なく組みます、その判断期間はどんなに長くても1年以内に結論を出すようにしています。
そして合わない人とは当座はビジネスライクに付き合い、タイミングを見て相手の方から離れていくようにお膳立てをします、これが最も事後トラブルのない別れ方だと思います、「寄るも去るも判断は常に相手に委ねる」、私流のビジネストラブル回避の極意です。