家族や友人と楽しく(楽して)過ごしてきた時間、これはこれでその人にとっては確かに有意義な時間だったと思います、でも同じ時期に社会人になって同じ時間を費やした友人はこの間に様々な事に興味を持って物事のファンダメンタルズや理論を経験によって学んでいたとしたらどうでしょう?
5年もすればノウハウと身につけた各種能力は雲泥の差となって現れその後の両者の人生は別次元のものになっています、学生時代に必要な学習は知識の記憶であり社会人に必要な学習は経験を通したノウハウの蓄積とそのノウハウによる発想や思考からくるクリティカルな行動です。
更には自立した大人としてのマナーや社会通念を身につけることです、つまり学習方法とその結果における出力の次元がまったく異なります、自立した社会人に必須な学習に時間を割いてきたか、これは既婚者か独身者かは全く無関係な話しです、その人が何をして過ごしてきたかの問題です。
既婚者でも家族が寝た後に一人パソコンに向かうことは可能ですし休日に道楽に没頭したり異業種の人と交流することも可能です、逆に独身者でも休日は自宅でぼんやりテレビばかり観て過ごしている人もいます、要はその本人がいろいろな物事に興味を持ってあらゆる物事のファンダメンタルズを学んできたか、そして道楽や異分野の人との交流を通して各種のノウハウや社会通念を得てきたかどうかです。
同様に子供の頃にどんな過ごし方をしてきたかで大人になってからの思考が形成されるという報告があります、野や山など自然の中で持てる時間を自由に過ごした子供、決められた勉強やスポーツばかりでそれ以外の事はやってこなかった子供、自分の世界に閉じこもって一つの事だけを徹底的にやってきた子供、その子の将来の思考は8歳までにベースが構築され13歳で固定化されるという研究成果が報告されています。
「するべき時期にするべき事をやっておく」ことが極めて重要です、社会人になっても柔軟思考の人はどんどん新たな経験や人との交流を通してオールマイティに各分野での知恵とノウハウを獲得していきます、逆に固定概念に囚われてしまう人は毎日をルーティングで過ごしては学生時代のやっつけ学習を行うだけで表面上の知識しか身につかず社会人として獲得すべき新たな知恵やノウハウを心身を通して学んでいきません。
この差は歳を追うごとに格差が広がっていきます、40歳を越えればこの両者は別世界で生きてきたかのように発想も思考も更には脳の情報処理構造や処理速度さえも全てが異なっているのです、見た目は同じ人間です、しかし脳の情報処理構造や処理速度が異なると同じものを見て同じ文章を読んでも捉え方や解釈が全く別のものとなってしまうのです、オーバーな話が種族が異なると言っても過言ではないでしょう。
ちなみに脳の処理構造や処理速度は話をすれば一発で解ります、更にキーボードの打ち込み精度と速度にも同様に現れます、過ごしてきた時間は取り戻すことはできません、日々同じことを繰り返すルーティングほど人生の時間を無駄に過ごすことは他にはないとさえ思います。
もっともその日々繰り返される平凡な人生に価値感を得ている人はそれはそれで幸せだと思いますし異論はありません、ただしこの両者が同じ目的で結びついた場合は話しは別です、価値感の大きな相違から固定概念に囚われている人は柔軟思考の人に大きな拒否感とストレスを与えてしまいます。
もしも固定概念の人が人生を変えたいと柔軟思考の人達と共に歩むのであればこれまでのささやかな幸福事と身に付けた固定概念の全てを捨てさることです、そして気が付いたら省みる、省みたら修正する、残り少ない人生を真の意味での生まれてきた使命を見つけ愉しみたいと思っているならそうするしかないというだけの話しです、もしくは無意味にこれまでの生き方に抗うことをせずに楽しく(楽して)過ごしてきた幸福事に専念することが自分と家族の平和を維持する方法だと思います。
「お前がいつか出会う災いは、お前がおろそかにした時間の報いだ」、誰よりも遅く寝て誰よりも早く起きていたと言われるナポレオンの残した名言は誰も否定することができないほどに実に深く的を得ています、「寝ている時間が一番もったいない」、大きな目標を持っている人はみな同じことを言い老いても益々進化を遂げていきます。
最後に、「楽しく(楽して)過ごしてきた時間」と「使命を見つけて愉しみたい」、同じ「たのしむ」の漢字の使い分けに気付き、その意味と理由が明確に解って読んだ人は柔軟思考の人だと思います。
新型コロナウイルス禍で窮地に追い込まれた人が多い中で逆にこれをチャンスと意識して改革を進め成功を収めている人がいることを忘れてはなりません、ソーシャルディスタンスやテレワークといった社会構造の変化にいち早く対応しそれに合わせた就業改革を行って売り上げを伸ばしている企業が少なからず存在しています。
また社会構造の変化に対応させたサービスや商材を充実させ新規事業を起こすITベンチャー企業も少なくありません、フードサービス業界ではテイクアウトやデリバリーをメイン業務に切り替えて人件費や光熱費を大幅に下げ緊急事態宣言以前よりも利益を伸ばした例はいくつもあります。
またスポーツの世界でも例外ではなくトレーニングやミーティングをリモートで行い大きな成果を上げている高校や大学は少なくありません、トレーニングをリモートにしたことで監督も含め選手は心身をマイペースで休められ意外な効果を発揮した事例などが報道されています。
多くの人がピンチだと慌てる中でしっかりと世の変化に合わせて変化させ大きな成果に繋げている企業や人は業種に関係なくマイノリティの勝者です、この先どんな社会構造や情勢の変化が起きても慌てず騒がずそれを受け入れ進化することで対応していけるでしょう。
要は全てが思考と行動の問題なのです、思考は行動という出力を導き出す原動力です、上手くいっている人達はこの変化に順応するスイッチングタイムが恐ろしいほどに極めて短いのです。
どんなときもどんな時代でも何かが変化するときにはそれまでの勝者に代わり新たなる勝者が台頭します、「ピンチはチャンス」とは変化に順応し進化させることを指して言う言葉だと思います、有事の時に平時と変わらない思考と行動をとっている人は自然の摂理に照らし合わせれば淘汰されていくのは必然の結果なのかもしれません。
これまでとは何かが違うという流れの変化に敏感になることです、そして感じたら躊躇することなく後先考えずに順応することです、考えている間に世の中の状況はあっという間に変化していきます。
あなたの思考や行動は1年前と比べてどうですか、変わっていないのであれば間違いなく既に淘汰の流れに片足を突っ込んでいるのかもしれません。
そして冷静に自身の周囲を観ることです、恐ろしいほどに別世界に変わっていることを実感できると思います、浦島太郎になりたくなければ現実に目をそむけることなく自身の周囲の変化に順応することです、昨日までの仲間が既に別次元で活躍しているかもしれません。
10年ほど前のこと会社経営している友人が新社をシンガポールに設立したのをきっかけに自宅も国境をまたいでマレーシアに構えました、シンガポールとマレーシアは橋を渡れば互いに行き来が自由にできます、こういった人は結構多いと聞きます。
また私の20年来のIT系パートナーは家族でマレーシアの首都クアラルンプールにやはり10年ほど前から住んでいます、その後も継続的にリモートで各種の仕事を行ってもらっています、近年日本を脱出しマレーシアに住む人が後を絶ちません、そんな人が世界中から押し寄せてマレーシアのシンガポール国境周辺は地価が急上昇しているそうです。
日本人には共有の芝生の庭とプール付きの小規模マンションが人気で掃除や食事を行うハウスキーパーや運転手を雇っても家族全員の一カ月の生活費は20万円ほどで済みます、同じ所得であればマレーシアでは日本の数倍の贅沢な生活ができるのです、しかも外貨であればどれほど稼いでも国内の税金はゼロです。
一時期はタックスヘイブンでも有名になったマレーシア、地震などの災害は少なくお隣シンガポールは世界有数の特許や金融の情報拠点でありグローバル企業のデーターセンターのほとんどがシンガポールに置かれています、シンガポールは世界有数の企業の支社が置かれまさに東西をつなぐグローバル国家として有名です。
マレーシアは常夏の地で今世界中から再注目されている熱い地域なのです、そしてマレーシアの85%の人が「日本が好き」というトップレベルの親日国家であり若い世代ではほぼ全員が親日と言っても過言ではありません。
また日本との時差は僅か1時間です、日本人にとっては非常に暮らしやすい国だと言えるでしょう、特に先の震災後はリスクヘッジも後押しして高い税金を払わされる所得の高い人ほどマレーシアへ移住しています、マレーシアに住んで時差1時間の日本相手にビジネスするというのは一つの選択肢かもしれません。
もう一つ、私の関心は冬夏季節が逆転するオーストラリアです、春から秋は日本で過ごし秋から春先はオーストラリアで過ごす、時差も僅かなトップレベルの親日国家オーストラリアも海外生活の選択肢の一つです、生涯日本で暮らすローカル人生も良いのですが日本と海外を行き来するグローバル人生もまた一つの選択肢かもしれません。
私が社会人になった頃は紙や石鹸が無いという「オイルショック」の真っ最中でバブル経済崩壊以上のひどい大不景気のまっ最中でした、大学を卒業しても就職先など皆無という状況でみんな苦労の末何とか職に就いていた時代です、そんな時代に故郷の誇る大手情報機器メーカーに就職できたのはラッキーでした。
しかし何と3ヶ月で肌に合わず退社します、再上京し友人の家を渡り歩きまともに食べることすらできなかった極貧の日々で就職の当てなどもありません、大学時代の悪友を頼ってとにかくその日を生きて行くことに必死でした。
そのときの悪友達の助けが嬉しかった、就職が決まるまでの数ヶ月間居候をさせてもらったのだから、そんな若き苦しい時代を時々思い出してはいざとなったときに頼れる人がいるということが如何に勇気を貰えるかを忘れることはありません。
社会人になってからずっと私はお金が無いときも友人との飲み代や道楽に使ってしまいます、あるいは明日どうなるかも解らない会社に多額の支援投資をしてしまいます、だからいまだに家は借家で車もタンス貯金もありません、有るのは換金不能の国内外の未上場企業の株と事実上無きものとなっている貸したお金の借用書ばかりです。
でも全然後悔なんてしていません、私のビジネス旧友は「いざという時は顧問で迎える」と言ってくれます、その人たちの存在が人生においてどれほど私の心の支えになっていることか計りしれません。
バブル崩壊後の1994年のドラマ「家なき子」の今も記憶にのこる名台詞は「同情するなら金をくれ!」ですがけだし名言だと改めて思うことがあります、例えばレストランやバーなどのお店の閉店、SNSなどでは閉店のお知らせに対して「また行きたかったのに」とか「皆に紹介してあげればよかった」などというコメントが山のように入ります。
ハッキリ言いましょう、閉店する理由など赤字が続いているからに決まっています、もっと言えばSNSでコメントだけはするもののお客さんとして来てくれなかったからです、店主はそれでも大人の対応なのか「また復活します!」などと元気に応えてはいます、本音は冒頭の名言ではないのですが「終わってから応援するくらいなら来てよ!」と言い放ちたいに違いありません。
世の中「良い子ちゃん病」が蔓延しているのか、言い訳がましい建前ばかりで行動しない人が実に多いと感じる昨今、綺麗な言葉でコメントするくらいなら潔く「お店に協力できずに申し訳ない」でよいと思うのです、その方が店主は気持ちが救われます。
同じように仕事の契約や出資なども同じことです、将来を観て契約する人も出資する人も説明などは不要で自身の閃きを信じて契約や出資します、根拠を要求し詳細な資料を提示させては結果的に契約もしなければ出資もしない、断りに理由など不要です、お金が無いならそれを素直に言えばよいだけのことです。
これも何度も経験してきて解るのです、詳しい説明や資料を求める人に限って断る理由を探しているだけです、だから私は会って話をする前に資料を先に要求する人は信じないことにしているのです、世にはびこる「良い子ちゃん病」は実に厄介な存在だと辟易しています。