私は還暦を越えた辺りから毎年のように歯の治療を行っており、1本また1本と歯を失っていますが歯を抜いた瞬間は痛いのですが2度とこの歯が痛むことは無いという何か安心感というか爽やかな気持ちになるのには驚きます。
私は幾つかの内蔵がありません、37歳の時に死亡率80%以上といわれる大病を患い消化器官の多くを失ってしまいました、その後考えたのですが逆に言えばその内臓に関する疾病に関しては癌などのリスクが皆無だということです。
おかしな話なのですがこう考えると何か前向きな気持ちになります、何故ならそれに関連する疾病を一生涯恐れずに過ごせるからです、家を持てば災害や融資担保などで失うリスクが付きまといますが無ければそんな不安も無いわけです、車も同様に持っていなければ事故の心配も故障で失うリスクも無いのです。
お金だって手元にあるから失う怖さが生まれます、私のように出資や貸付金としてグループやパートナー法人に預けておけば特別な事情を除けば債権を失うことはありません、状況とタイミングをみて必要な時に回収することができます、事実昨年から毎月少しずつ回収に入っており年金を貰っているかのように口座残高が日々膨らんでいます。
結婚も同じことで結婚した瞬間に離婚や親族内トラブルに家族の怪我病気などを心配するリスクが生まれます、こういったことに気持や時間をとられることで仕事に専念できないというデメリットが発生します、こう考えると持つメリットよりも持たないメリットの方が大きいと感じるのは私だけでしょうか?
下手に何かを持てば必ずリスクを抱えます、個人情報などの情報も含めて「不安要素は持たない方が良い」と考えるのと前向きな思考に変わるように思えます。
極論として私はそもそも得たもの全てが「生まれた時には持っていなかった」ものとして考えるようにしています、こう思うことで不思議と心に余裕が生まれます、経済的余裕に加えて精神的余裕ほど生きるのに楽な状況はありません、ただし私のように無人島でたった一人残されても毎日を愉しく過ごすことができるという考えの人であればという話ですが。
昔から嫌う言葉に「論破」というのがあります、いい歳の人が使うならまだ大人の対応もできますが若い人でも口達者な人は自慢するつもりなのか使いたがります、この「論破」の何が嫌いかと言うと「論破」を意識している人は必ず話しをコロコロとすり替えるからです。
会話の中で争点や論点が意図的に変わります、正確な真実を得て判断することを信条としている私にはとても耐えられる会話ではありません、そこで決別を意識して沈黙に入るのですが何を勘違いしているのか「勝った」とばかりにニヤッとします、論破したと思っているのでしょうが私は「これ以上話しても無駄だから早々に離別しよう、ならばあえて嫌な会話は避けて恨まれないように沈黙を決めよう」と考えているのです。
こんな人とは信頼関係を絶対に結べないし早々に手を切ることがお互いのためです、ビジネスにおいて重要なのは立場や責任ではありません、重要なのは真実が何かです、経営とは真実を分析して次の最善の策を練らなくてはいけないのです。
にも関らず自身に責任が及ぶことを警戒しているのか事実を探られるのを嫌がり話題をそらそうと必死です、まあ潔くない態度にあきれます、まして還暦を越えた私と同年代の昭和の男であれば虚しさと怒りが込み上げてきます。
全てを自分の責任として受け止めなければ政治家なら国民が、経営者なら社員や取引先がついてくるわけがありません、自身で決断した結果責任を全うできないのであれば自から潔く退いてほしいと思います、真実を追求せずに話しをすり替える人に重要な立場を任せられません、例え自身に責が及ぼうが事実を正確に話せない人とは1秒たりとも関り合いたくないのです。
人間の行動心理で実に面白い事象があります、その一つに名称の定義こそ在りませんが行動内容から私は「事後検証」と称しています、これはどのような行動心理かといいますと「自分が判断して行動した事項を後々にそれが正しかったかどうかを確認する」という行動を無意識にとってしまうというものです。
例えば社員だった頃は自社のホームページを見ることすらしなかった人が退社後に会社がその後どうなったかが気になってホームページを常に見るようになります、また縁を自ら切った人がその後どうなったか、買おうとして買わなかった金融商品の価格がどうなったかなど、自分の判断が正しかったかそれとも間違っていたのかと判断行動した後に猛然と気になってしまうのです。
私は過去からこういった行動心理を目の当たりにすることが多々あります、自ら縁を切ってきた人が突然メールなどで連絡してくることがあります、そのメールには「ホームページを見て元気かなと思って連絡しただけです」とあります、「元気にやってますよ」と返信すると「それなら良かったです」だけでやり取りは終わってしまいます、わざわざ連絡してきたからには何かあると思うのですが特にこれといった進展はありません。
ただ気になっているのだなということだけは伝わってきます、こういった人は一人や二人ではありません、縁が切れた後まで未練がましく気にするくらいだったら新たな関係を構築しようと試みればいいのに何故かできないようです、否自分の判断したことが過ちだったことを認めたくないのでしょう。
人の心理とは思った以上に複雑で深いなと思うことが多々あります、私はというと自身の判断で行動したことは全てが自身の責任だとして受け入れます、だからどのような結果が起きようとも後ろを振り返ることはありません、つまり終わったことはその後どうなったかもまったく気にならないのです、その事実は最初からなかった事として次の新たなるステップに既に進んでしまっているからです。
過去を振りかえったところで戻れるわけはないし、できることはあくまでも未来に起こる出会いと出来事しかないのですから、ただ私は過去に去った人を何度も受け入れてきています、それは未来に開かれた新たな出会いだと認識するようにしているからに他なりません。
世の中には過去に囚われている人が多いなと感じる今日この頃です、数年来の某国との諸問題は民族的な過去の恨(はん)によるものだと多くの識者が口を揃えて言いますがその民族にはその民族の人でしか理解できないものがあるように思います。
また口癖のようにトラウマを口にする人も昔に比べて多くなった感がありますが、その多くは嫌なことからの逃避目的で口実にしているのではないかと思えることもあります。
トラウマにしても恨にしても本当に精神的な苦痛や民族意識での話であれば理解するように努めるしかないのですが自己利益や政治的な思惑で公言しているのであれば大きな信頼失墜に繋がると思えて仕方ありません、何れにしても過去に囚われて未来志向で行動できない人に明るい未来は無いのではないかと思います、時間は未来にしか進めないのですから。
少なくても私は「過去」という言葉自体が大嫌いです、そして他者の過去にも興味ないし自身の過去の成功や栄華を誇ることもありません、重要なのは今そして未来です、そもそも今の状況に幸福感を得られず未来の夢の実現や希望にも確信が持てない、だから何時までも過去を意識してしまうのではないでしょうか?
仮に今が幸福の絶頂なら過去を思い出しても振り返らないと思うのです、どんな状況であれ今があることに感謝し幸福な人生を送るためにも明るい未来を信じて前向きに生きるべきだと思います、そして嫌な過去や縁を切りたい人のことは振り返るのではなく法的手段を講じても綺麗に清算して本当の意味での「終わった過去」にしてしまうことです、それが精神的断捨離というものだと思います。
ときどき耳にする「トナラー」という言葉ですが他者との距離を物理的に取れない場合に作動する心理作用である「没人格化」を任意にコントロールできない人を指して用いる言葉のようです、「没人格化」とは例えば混んでいる電車などでは身体がくっつくほどの状況下でも両隣りは人間ではなく物であると脳が認識し自身が座る行為を優先させることなどをいいます。
電車のこうした事実は普通では有り得ないことです、これが公園のベンチであれば変態と認識され通報されてしまいます、これが「没人格化」という本能にも似た脳の機能がなせる技です、そして「没人格化」を電車がガラガラなときにまで無意識に発動させてしまうのが「トナラー」という人なのです。
皆さんも経験していると思いますがレストランや居酒屋でガラガラなのにわざわざ隣に座るグループや駐車場でガラガラなのに隣に駐車させる人がそれに当たります、やられた方はよい迷惑です、仕事上やプライベートでの他者に聞かれたくない話しもできないし駐車場では傷でも付けたら厄介な事になります、それ以上にパーソナル空間を犯された気分になり不愉快にさせられてしまいます。
まだ混んでいる状況であれば当然のこと「没人格化」が機能して我慢できますがガラガラ状態でこれをやられるとストレスがマックスになります、更に男性はよく解ると思いますが駅などの公衆トイレでこれをやられると危機意識さえも生じてしまいます。
このような「トナラー」の人とはいったいどんな心理によってこういった行動をとるのでしょうか、実はこれを研究した社団法人があったのです、その社団法人の出した答えは「不安感を払拭し安心感を得る為」なのだそうです。
初めてのレストランや居酒屋では勝手知りません、どんな種のお客さんなのかどのようなサービスなのかわかりません、そこで先に来ている人の隣にあえて座り周囲に「団体だからね」という暗黙のサインを出すことによって自身の不安感を払拭させ安心感を得ようとする深層心理だというのです。
解らなくもないのですが「トナラー」はハッキリ言って迷惑です、他者依存せず初めてのお店でも「孤独感」という何とも言えない微妙な不安心境を大いに愉しんで頂ければ幸いです。