私の悪癖は爆買。
酒を飲んで気分最高の後は何時も爆買。
衣類に家電にCDやDVD、ハシゴ酒ならぬハシゴ爆買。
冬場は週一と特に酷くなる。
周囲も慣れたもので何も言わずにお付き合い。
むしろ目当ての物を積極的に探してくれる。
更には重い買い物袋を家の近くまで持ってきてくれる。
ただ、翌日の朝には記憶が無い。
玄関に山と積まれた紙袋に段ボール箱。
「ああ、またやっちまったか」と猛反省。
でも、こう思うことにしている。
普段は買い物に気持ちが向かわない。
ほろ酔い効果で一気にストッパーが外れてしまうのだろう。
この40年というもの、私の爆買癖は夜突如として開く。
「これ、どう思います?」
日々、いろんな人がアイデアを持ち込んでくる。
他者にアドバイスを求めることは特段構わない。
でも自分からは一切行動を起こさないのは何故か?
他者に話す前に自分でとっととやれば良いのに。
世の中、行動してから口に出す人が信頼される。
ビジネスは姿勢と結果だけが信用の根拠だから。
口先だけで行動しない人は自信と覚悟が無い。
だから協賛し各種支援してくれる人を探し求める。
一人では不安だから、一人では何も出来ないから。
他者のノウハウと資金をあてにしては妄想の中で生きる。
他者を頼るうちは被害者を増やして終わるのが常。
まあ、押し並べて「口先人間」は不利益を齎しても、
利益を齎す人ではないことだけは確かだ。
最近の日本人は正しく日本語が使えない。
昔から存在する言葉を思い込みだけで使っている。
そして多くの誤用に気付いてない。
例えば「うがった」という言葉。
「うがった見方」、「うがった考え」。
本来は「穿った」と書き、
「物事を深く掘り起こして考える」という肯定的な意味。
ところが「疑いをもって」などの意味で使っている。
言葉の持つ響きでけで思い込んでいるのか、
誤用している人の真似をしているのか、
何れにしてもいい歳をしての言葉の誤用は如何なものか。
正確に知らない言葉は使わないに限る。
還暦過ぎて物事の本質が理解できるようになった。
例えば「正義」。
実に曖昧なものであり流動的に変化していくもの。
戦争状況下では敵を多く殺したものが英雄だが、
平和な時代ではただの大量虐殺者となる。
「正義」とは、いったい何なのであろうか?
孔子の「人として正しい道を歩め」という「義」の教え、
時代背景と使う人によっては意味が180度変わる。
国や地域のローカルな価値観は、
グローバル時代には通用しない。
ある人にとって正しいことは、
ある人にとっては正しくないことが多々起きる。
「正義」の流動性は、
固執することで立場を危うくすることが起きてくる。
価値が揺れ動く時代には「正義」も激しく揺れ動き、
それぞれの人に無限に存在しているもの。
常に「正義」とは固定概念ではなく流動的なもの。
そして、個々人にそれぞれの正義が存在している。
これだけを頭に入れておけば、
不要なトラブルに見舞われる事もないだろう。
この頃の食欲とアルコール摂取量は半端ではない。
天は意味の無い事は与えない。
そう信じて思うがままに心身を満たす毎日。
毎日美味しいものをたらふく食べて、
美味しいお酒もたっぷり飲んでも元気に過ごせている。
これ以上の何を望むべくもない。
ただ、不思議な事に体重は増えることもない。
人間ドックの結果もこの数年間はすこぶる良い。
成人病と癌検診も毎年欠かさず行っているが、
何一つ異常無く健康体そのものだ。
還暦過ぎて確実に身体細胞が変化している。
隠居生活に合わせて進化しているのかもしれない。
まあ、いずれにしても結果良ければすべて善し。