どんなものでも貯め込んでしまう人がいる。
行うべき債務も後回しにしては貯め込んでいる。
逆にお金だけは貯めることができないようだ。
その理由は極めて明確である。
捨てるべきものを捨てるべきときに捨てないから。
行うべきことを行うべきときに行わないから。
流石にお金も山と積まれた債務を見たら一目散に退散するだろう。
そして何でも貯め込む人は負のエネルギーまでも貯め込んでしまう。
これでは何もかもが上手くいくはずはない。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
昨今不要になった法人をどんどん解散している。
祖業法人の解散決意は流石に周囲も驚いた。
更にはメイン事業法人の代表交代を進めている。
この裏にあるのは隠居の準備に他ならない。
同じ行為なら枠外でサポートするのが気楽でいい。
いろいろな意味で拘束されずに自由奔放にやれるから。
若いときから格式やルールという枠が大嫌いだった。
報酬を貰えば義務と責任が生まれ束縛される。
これらは隠居する身には重荷になるだけだ。
起業する前は独自の事業など何も持っていなかった。
隠居の時も収益事業を何も持たないのが心地良い。
日々淡々と道楽ビジネスに明け暮れて、
残りの余生を思う存分に愉しむのが理想郷というものだ。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
縁とは真に摩訶不思議なものだと思う。
最良のパートナーだと信頼していた人が、
いとも簡単に信頼関係を蹴ってまで自己保身に走る。
もう二度と会わないだろうと思っていた人が、
数年後に再開した途端に最強のパートナーとなる。
縁があればどんな別れ方でも再会し、
縁が無ければどんな深い関係でも瞬時に崩壊する。
「どんな人とどんな縁で結ばれているか」
これを常に考えられる人が真の信頼関係を築き、
多くの縁の力を得て成功を収めているのは事実である。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
価値観とか世界観などの異なる感覚問題の話。
これらは押し並べて言えば感性の問題、
もっと言えば個性の問題である。
幾ら説明しても解らない人には一切伝わらない。
何も説明しなくても解る人には全てが正確に伝わる。
これを私は同じ姿恰好をした別の生命体だと思うようにしている。
そう考えるとイライラしないし悩む必要もない。
同じ時間と空間を共有していても、
共通の意思疎通手段が存在しない生命体だと思えば看過できる。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
これはコンビニ弁当の話である。
温めないと美味しくないハンバーグや焼肉弁当。
それなのにサラダや漬物が入っている。
茹ったサラダに熱い漬物。
これを美味しいと思う人がはたしているだろうか?
これこそ顧客不在のやっつけ仕事の極みである。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。