寛解(かんかい)とは完治ではなく、
自然治癒力によって見掛け上疾病が消滅した状態のことをいう。
時には成人病などの不治の病も寛解する。
アトピー性皮膚疾患や花粉症などのアレルギー疾患も然り。
私も足底筋膜炎や大腸ポリープにはじまり、
尋常性湿疹・膝関節症などを寛解させた経験を持つ。
幼少の頃は親父の荒治療で食物アレルギーを寛解させた。
寛解を引き出す唯一の方法は「何もしない」こと。
病院に行っても治療方法は注射や薬での対処法だけだ。
「薬はかえって症状を長引かせる」と言う医者もいる。
痒みや痛みに耐え我慢の日々を数年間継続させるだけでよい。
副賞として精神的な免疫力は半端無く向上する。
荒っぽく思えるがこれが私独自の治療法。
個人や企業の苦境も然りで何時かは全てが寛解する。
バタバタと悪あがきをすればするほど悪化させるだけだ。
これも多くの実経験から明確に言える事実だ。
ただし他者には決して奨めない。
精神的に堪えうる自信があるならアドバイスもできるが。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
自分のポリシーや方法でやりたいのであれば、
全ての責任を背負って自分の力だけでやることだ。
自分だけでは出来ずに他者の力を借りるなら、
他者を信頼して余計なことを考えずに全てを任せることだ。
他者に頼るだけ頼っておいて自分の都合を押し付ける、
極めて身勝手な人間であり信頼を失って当然である。
任せられた方は責任を背負って他者事にも関らず、
自分の事以上に考えてやっているというのに。
中途半端な姿勢はいつの時代も負の遺産だけを残すようだ。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
他者を羨まない。
他者を恨まない。
他者を攻めない。
他者を認めて許容することだ。
他者の幸福事を素直に受け入れることで自身が変わっていく。
他者に寛大な心は自分自身のすべてを豊かにする。
心は常に海のように深く空のように広く。
厳しさの中に優しさを優しさの中に厳しさを。
他者を真に思いやる心を育てることだ。
真に幸福な日々を送りたいなら他者に寛大になることだ。
ただし許容と妥協に加えて寛大と無関心を混同することなかれ。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
道楽事を生業にするとろくなことがない。
儲け事よりもやりたい事を優先させるから。
やりたい事をやれる喜びに満足してしまうから。
道楽事でビジネスするなら余裕の中でやることだ。
しっかりと生計ベースを構築した上で行うことだ。
生活が守られた上での真の道楽ビジネス、
こんな愉しくて強いものは他にはない。
利益がマイナスでも余裕の中で継続できるのだから。
こういう状況下での道楽ビジネスは、
意外にも生業以上に儲かるビジネスに成長することもある。
やりたい事ができたら、
まずは生活を確実に強固安定させることだ。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。
「熟なれる」と書いて「こなれる」と読む。
じっくりと煮込んだ料理は美味しくなる。
じっくりと調整したITシステムは安定稼働する。
じっくりと組み合わせたオーディオは愉音を奏でる。
じっくりと計画し推進させた事業は長期に渡り利益を齎す。
どんな事も時間をかけてじっくりと取り組むことだ。
時間をかければ自然に熟なれて熟成するのだから。
何事も焦りから性急に事を進めても上手くはいかない。
やる事をやりつつ時間をかけて自然に熟なれるのを待つ。
一旦熟なれたものは極めて強固に安定する。
これも一つの「待て」の極意。
人も同様に熟なれるには絶対的な時間が必須である。
蛹の中で成虫に変わる日をじっと待つしかない。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。