2024年11月 8日 06:00
生業を心から愉しむことができなくなったら、
それは生活原資を得る為の単なる労働というものだ。
生業なら明確な目的や夢が存在しているはずだ。
逆に労働には目的や夢などは一切不要である。
何故ならその行為は単に生活する為の手段だから。
目的に生きるのか手段に生きるのか、
問われても答える必要はない。
覚悟と姿勢を観れば誰の目にも一目瞭然だから。
守るべき人がいると言うなら手段に訴えている間は守れない。
目的意識を強く持って愉しんで生業事をするしかない。
それが組織利益向上に繋がり自身へも利益還元されるからだ。
心身をおかしくしてまで嫌々労働している哀れな姿を見て、
これで生活できると喜ぶ家族もいないだろう。
それでも自分は守るべき人を守っていると自負するなら、
それは愛ではなくて偽善に満ちた虚偽の満足感という代物でしかない。
※従心(じゅうしん)とは、孔子論語の「七十にして心の欲するところに従えども矩 (のり) をこえず」という節を起源とする70歳代の呼び名である。