決別の時は言いたいことが山ほど有っても、
何も語らないのが賢い別れ方というものだ。
人間関係とは常に一方通行ではなく、
相互の時空が重なり合う事象なのだ。
その結果においての決別もまた、
双方の何らかのすれ違いが生じたからである。
決別は最終ではなく縁があれば再会するもの。
一過性の瞬間につまらない捨て台詞は、
未来において大きな遺恨を残すことになる。
捨て台詞のたった一言で、
未来に訪れる縁への扉が閉ざされることもある。
決別の時は笑顔で無言が善い。
※耳順(じじゅん)とは、孔子論語の「六十にして人の話しを素直に聞けるようになった」という節を起源とする60歳代の呼び名である。
失う本質とは失うという事象そのものではない。
失った後に訪れる現実が意味を表すことになる。
失って初めて味わう開放感もあれば、
後悔の念に押しつぶされることもある。
失うとは善しにせよ悪しきにせよ、
失う前にはその価値が正確には解らない。
失って初めてその価値が表面化する。
失うことが善いことなのか悪いことなのかは、
失ってみれば明確に解ることだ。
もっとも失って再確認したところで元には戻らないが。
※耳順(じじゅん)とは、孔子論語の「六十にして人の話しを素直に聞けるようになった」という節を起源とする60歳代の呼び名である。
大きな事を成し遂げるには多くの人の協力を必要とする。
大きな事を成そうとしているのに、
自分の小さな拘りなどは一切不要である。
そんな些細な事などどうでもよい。
小さな事に拘るあまりに大きな目標を見失う。
小さな事にエネルギーを消費して何になる。
障害になっても何一つの利益にもならない。
最初から小さな事に拘るような人では、
大きな事を成し得ることは不可能である。
目標達成には何が必須なのかだけを考えることが肝要である。
※耳順(じじゅん)とは、孔子論語の「六十にして人の話しを素直に聞けるようになった」という節を起源とする60歳代の呼び名である。
炭素・酸素・水素+ミネラル。
この地球上に生息する全ての動植物は、
この元素だけで作られている。
その化合物にどのようにして生命が宿ったのか?
そしてどのようにして意志を持ったのか?
生命の誕生は科学では解明できない最大の謎である。
ただ一つ言える事がある。
それは地球上の出来事など宇宙規模で考えれば、
刹那なる出来事だということだ。
そして人間とはそんな刹那な時間の中で必死に生きている。
※耳順(じじゅん)とは、孔子論語の「六十にして人の話しを素直に聞けるようになった」という節を起源とする60歳代の呼び名である。
賢者は偶然の出会いに意味と理由を見い出し、
必然の出会いに変える。
だから常に多くの人材に恵まれる。
愚者は必然の出会いに感謝することなく台無しにし、
偶然の出会いに終わらせる。
だからいざというときに誰も助けてくれない。
※耳順(じじゅん)とは、孔子論語の「六十にして人の話しを素直に聞けるようになった」という節を起源とする60歳代の呼び名である。