道が変われば景色が変わる。
景色が変われば思考が変わる。
思考が変われば人間が変わる。
道が変われば出会う人が変わる。
出会う人が変われば学びが変わる。
学びが変われば人生が変わる。
道が変われば全てが変わる。
どの道を選ぶのかは他ならぬ自分。
今の自分は自身が選んだ道を進んでいるに過ぎない。
満足していないのであれば、
躊躇せずに道を変えれば済む話である。
ただし引き返すことはできない。
例え元の道に戻っても既に以前の道ではない。
※耳順(じじゅん)とは、孔子論語の「六十にして人の話しを素直に聞けるようになった」という節を起源とする60歳代の呼び名である。
科学は万能ではない。
真実を物質論で見出すのが科学なら、
精神論で見出す方法がなくてはならない。
それが揃って初めて森羅万象を正確に捉えられる。
真実を見出そうとする科学にも様々な方法がある。
それが物理学であり、数学であり、化学である。
その一つの方法で見えるものは、
真実のほんの一部の側面でしかない。
その一つの方法を学び知り、
全てを解ったつもりになるのは、
大きな驕りであり愚かなことである。
物質的な物事にも精神的な物事にも陰と陽がある。
その真実を解く方法にも陰と陽が存在して然るべきだ。
この世に完全なる方法など存在しない。
全てが未完成な人間が生みだした、
偏見によって作られた方法に過ぎない。
その全てを解ったうえで、
森羅万象にそれぞれを的確に用いれる者が、
調和の取れた人間ということである。
※耳順(じじゅん)とは、孔子論語の「六十にして人の話しを素直に聞けるようになった」という節を起源とする60歳代の呼び名である。
人脈は何人知っているかなどは意味が無い。
真の人脈とは自分が本当に困ったとき、
何人の人が親身になって助けてくれたのか、
何人の人が協力してくれたのか、
そこが最も重要な人脈ポイントである。
これが理解できないなら成功など夢物語である。
何事も一人ではどんなに頑張っても限界がある。
何人の信頼関係で結ばれた真の身内を作れるか。
それが人生を正しく生きているという証であり、
その人の絶対的な存在価値である。
※耳順(じじゅん)とは、孔子論語の「六十にして人の話しを素直に聞けるようになった」という節を起源とする60歳代の呼び名である。
緑を赤、赤を緑に見える人と、
緑を赤、赤を緑として記憶してしまった人。
この両者を医学的にも見分けることは不可能である。
ある情報を誤って記憶してしまった人の頑なな拘り。
これを正すことは不可能だということだ。
修正する方法は一つ、
自ら記憶の誤りに気付くことだ。
自身の強い意思以外に、
思考回路の組み換えは不可能である。
※耳順(じじゅん)とは、孔子論語の「六十にして人の話しを素直に聞けるようになった」という節を起源とする60歳代の呼び名である。
自分が一番やりたいことを迷わず選択すること。
自分が正しいと思う道を迷わず突き進むこと。
それが自身が捨てることができないものである。
その結果がどうなろうと悔いは残らない。
全てを自己責任においてまっとうできる。
他方、家族を守る為にというのは偽善にすぎない。
失敗したときの逃げ道を作っているだけだ。
自分が幸福でないなら他者を幸福にはできない。
まずは自分が幸福になることが最優先課題なのだ。
※耳順(じじゅん)とは、孔子論語の「六十にして人の話しを素直に聞けるようになった」という節を起源とする60歳代の呼び名である。