伊勢正三の詞に思い巡らす。
「泳ぐ魚の群れに石を投げてみた、
逃げる魚達には何の罪が有るの」
時として人は誰かに石を投げたくなることもある。
ただ、ふと我に返って石を投げたい気持ちを抑える。
天が人間だけに与えた欲である「業(ごう)」は、
当たり前のように誰もが持っているもの。
しかし相手の立場や気持ちを考え、
家族や心を共にする仲間に係る迷惑を意識し、
踏みとどまるのが自律した大人というものだ。
不愉快なのはのんびり泳ぐ魚達の存在ではなく、
どうしようもない自分自身の心の置き場である。
石を投げてしまう者には、
石を投げられた者の気持ちは一生解らない。
石を投げられた者は、
石を投げた者のことを一生忘れることはない。
例え投げる者の気持ちを正確に理解できても、
「石を投げられた」という記憶は消えることはない。
幸福に包まれた時が双方に訪れたとしてもだ。
のんびりとした幸福なる老後を意識するようになったら、
他者の気持ちを素直に聞ける「耳順」の心を持つことだ。
※耳順(じじゅん)とは、孔子論語の「六十にして人の話しを素直に聞けるようになった」という節を起源とする60歳代の呼び名である。
全ての生命体へ天から3つの贈り物がある。
それは「生誕」、「自然死」、「生きる意思」である。
「生誕」と「自然死」は自分ではどうにもできない宿命である。
「生きる意思」は自分で決定できる運命である。
みんな忘れてないか?
「生きる意思」という天からの最高の贈り物を。
日々ルーティンに流され公私共に義務や責任に縛られ、
つまらない人間関係としがらみに振り回され、
猜疑心から真の信頼関係を構築することができないでいる。
そして限られた大切な人生の時間を浪費することに始終する。
天のいう「生きる意思」とは生を受け幸福感に包まれた、
自然の死を迎えるまでの、
二度とこない貴重な時間の有効な使い方を意味しているのです。
貴重な時間を有意義に使うことが、
生を与えられた全ての者の最大の使命であり天命なのです。
※耳順(じじゅん)とは、孔子論語の「六十にして人の話しを素直に聞けるようになった」という節を起源とする60歳代の呼び名である。
人生は山あり谷あり。
登るに難し下るに易し。
でも忘れちゃいけないことがある。
事故の多くは歩くに易しい下り坂である。
辛くても登っているときが慎重になるので実は安全なのだ。
自身で描く理想郷を目指してひたすら登りつめることだ。
登りつめた者にしか味わえない理想郷という極めつけの絶景。
ゆっくりと味わってみたいと思わないか?
※耳順(じじゅん)とは、孔子論語の「六十にして人の話しを素直に聞けるようになった」という節を起源とする60歳代の呼び名である。
どんな出来事も自身で選んでいるのではなく、
何者かによって選ばれているという思考の方が有益である。
そう考えると納得する事が実に多いことに気付かされる。
不都合な状況や不都合な人が寄ってくるのは、
自身が引寄せているのではなく、
不都合な存在に自身が選ばれているだけである。
真に人生を変えたいと思うなら現実を直視し、
起きている事実を真摯に認め生き方を改めることである。
※耳順(じじゅん)とは、孔子論語の「六十にして人の話しを素直に聞けるようになった」という節を起源とする60歳代の呼び名である。
古い建物を壊さなければ新しい建物を建てられない。
新しきを生むには常に古きものを壊す必要がある。
ここでゼロにする覚悟が有るかどうかが問われる。
ゼロにするか何時までも古いものにしがみついているか。
ただゼロになっても全てを失うわけではない。
それまでの経験や思い出という大きな財産は残る。
それは次のステージにおいて強力な原動力となる。
どんなことでもリフォームには限界がある。
外見が変わっても中身がボロボロでは意味がない。
成功者とは古くなったものを潔く壊す強さを持っている。
その潔さに天も人も称賛し賛同するということだ。
※耳順(じじゅん)とは、孔子論語の「六十にして人の話しを素直に聞けるようになった」という節を起源とする60歳代の呼び名である。