「es」の力は絶大です、一夜にして別人にしてしまうことなど不思議ではありません、中でも特に怖いのが昨日までの腹心とも言える人が一夜にして敵意を露わにしてしまうことです。
織田信長に謀反を起こした明智光秀はこの例としては極めて解り易いと思います、二人三脚で起業当初から会社を盛り上げてきた腹心中の腹心ともいえる取締役の離脱、その後に強敵となり立ち向かうことなどは何時の時代でも珍しいことではありません。
ソフトバンクもアップルも多くの大企業も成長期によくみられた事実です、ところで謀反を起こすきっかけとは何でしょうか?
おそらくですが起業から一緒にやっていく間には各種の大きな壁が立ちはだかります、これらをみんなで力を合わせて乗り越えていきます、そして会社は大きく成長して一緒にやってきた仲間が利益を欲しいままにします。
また企業が大きくなることで一枚岩で固まっていた当時のメンバーの心に、今度は自分が中心になって業界を引っ張りたいという思いが込み上げてくるのかもしれません。
皆で努力して今の状況が有るのにマスコミが取り上げるのは代表者だけです、同じ苦労を共にしてきたという理不尽さに耐えられなくなるのかもしれません。
そんな時期にちょっとした事がきっかけとなり「es」は自我を呼び起こします、こうなると理性では抑えることはできません、一気に反主流派を立ち上げ決別を仲間に告げて自立してしまいます。
ただ一部の例を除いてはこれで上手くいった人はいません、それまでのやり方でその企業が上手くいっていたのは代表者の思考や判断によるものが大きいからです。
つまり思考とやり方がマッチしていたからこその成長なのです、合わせてそれぞれの能力がその代表によって一つになっていたのです、このバランスが崩れた状況で自分流でなく他者のやり方を真似ただけでは上手くいくはずはないのです。
反発心とは対象の人を思っていた大きさの相応分に大きくなるのです、それぞれに名分が有るのかもしれません、有ってはならないのが自己利益優先の思考と行動です、これによる反発だけは上手くいった例は皆無です。
謀反を起こすなら、相応の志と覚悟をもって世間が認める方法と大義名分が不可欠なのです。
「es」が自我を呼び起こすことで起こる現象は悪いことばかりではありません、時に「es」は極普通の人間をスーパンマンに変えることもあるのです。
平凡に暮らしていた何の変哲もないサラリーマン、ところがそんなサラリーマンに晴天の霹靂が起きます。
その日何時ものように会社に行ったら会社が民事再生の申請を出し破綻していた、これは現在では珍しいことではありません。
さて一夜にして生活の糧を失った社員達ですが、知り合いの弁護士を通して再生コンサルタントに連絡を取ります。
依頼を受けた再生コンサルタントは弁護士と共に未払い給与を原資に管財人に事業譲渡を打診します、多くの場合は取れる債権も無ければすんなりと受け入れられます。
そして社員間で互選により代表を決め新社を設立して自身の生活を守ります、その際に代表に選出されたとたんに経営者としての才能を何処に潜めていたのかと思うほどに進化を遂げる人がいるのです。
法務的な処理から会計処理まで進んで解決し、それまで同僚だった人たちを一つにまとめ上げ分散処理で一気に新社での事業を始動させてしまうのです。
取引先もこの姿勢に感動し債権を放棄してまでも戻ってきます、そしてそれまでの会社とは別会社のような業績を上げ銀行も支援してくれるようになります。
社員という立場で抑えられていた経営者としての才能が、勤めていた会社の破綻をきっかけに「es」が自我を呼び起こして「能力の開花」もしくは「パラダイムシフト」を成したのです。
「es」が起こす最高の善例がこれです、現在の日本の上場企業の経営者にはこの例に当てはまる人が実に多く存在しています。
企業再生の手法で、事業と社員を別会社を創設して移管することは昔から常道手段としてよく使われる「第二会社法」による再生方法の一つです。
その時に再生計画中の会社と新会社間での利益相反が行われないように、新会社の代表は社員の中から選出するか再生会社の社長の知人などを外部から登用して擁立します。
そして再生会社との間で事業譲渡契約を締結し、事業と社員を守った上で再生会社の最終的な清算を開始するのです。
このとき新会社の代表にこれまでの社員の中から擁立する場合が多いのですが、この新社の代表になる人によく見られるのが再生会社の代表やこれまでの取引先の代表者に対しての無意味な「対等意識」です。
それまでは幹部と言えども社員です、当然再生会社の代表にも取引先の代表者にも敬語を使い大人の対応をしています。
ところが新社の代表になりしばらくすると態度が大きくなり、それまでお世話になった再生会社の代表などに横柄な態度を取り始めます。
また取引先の社員に対しても、それまで仲良くやっていたのに上から目線でものを言うようになります。
飲みに行っても言葉使いも態度もガラリと変わり別人のようになります、そして常に口にするのが「これからは代表同士ですので対等に付き合いましょう」というものです。
これには私どころか再生会社の代表や社員までもドン引きします、そして何名かの社員が辞め支援していた人も離れていきます。
更にはそれまで我が子のように面倒見ていた再生会社の代表さえも、「あんな奴とは思わなかった、代表にさせるんじゃなかった」と愚痴をこぼすようになります。
終いには支援することを止めてしまい、対等どころか敵対意識を燃やすようになっていきます。
立場が同じになった瞬間に「es」が自我を呼びさまし、それまで社員として我慢して抑えてきたことが一気に表面化してしまうのです。
立場が同じでも対等ではないのです、これまで世話になった恩も今の自分の立場も全てが他者から齎された恩恵です、自身のお金で新社を創設し自身の器で社員を引き取ったわけではありません。
全てが他者から齎されたものです、この時点で対等どころか大きな恩を受けたという立場であり互いの立場には大きな乖離があるのです。
それを忘れて横柄な態度を周囲に繰り広げれば、「この新社は長くは持たない」、そう誰もが考えても不思議ではありません。
だから銀行もコンサルタントも弁護士も含めて誰もが嫌気をさして支援しなくなるのです、そして彼の末路は誰が考えても容易く導かれます。
人間は他の動物と比較して唯一持っているものが生きるための生理的欲求以外の心理的欲求です、これをブッダの世界では「業(ごう)」と言います、この欲求を階層的にまとめ上げたのがマズローの欲求階層です。
欲求第一階層は「生理的欲求」であり食べる・寝る・排泄の三大欲求を指します、これが実現すると次の「安全欲求」となり家で安全に経済的にも憂いなく暮らしたいという欲求が生まれます。
そしてこれが満たされると次の段階である「社会的欲求」となります、「社会的欲求」とは社会に認められたいとか社会の為に何か役に立つ活動がしたいという欲求であり、日本人の場合はほとんどの人がこの状況にあります。
この「社会的欲求が」満たされて初めて「尊厳欲求」という自己を律する高次元の欲求が生まれ、更に最高位の「自己実現欲求」という欲求階層に辿り着くのです。
さて定年退職などで退職金があり老後の生活の心配もない人が例えばボランティア活動や社会に役立つような活動を欲するのは至極自然のことなのかもしれません、それまで自分が働いてきたことを通して社会貢献したい、困った人を助けたいという思い、これが「社会的欲求」を満たし「尊厳欲求」への正常なるステップなのです。
不思議なのは若くして定職にも就けず場合によっては家も持てずにネットカフェを転々としているにも関わらずボランティア活動や他者の世話を欲する人たちがいます、この人たちはいったい何に心を動かされているのでしょうか?
マズローの欲求階層からみると「安全欲求」と「社会的欲求」を2階層も飛び越えて精神のみが「尊厳欲求」の世界に行ってしまっているのです、推測するに先の大震災などで本当に純粋な気持ちからボランティア活動に参加した際などに多くの人たちから感謝され心から「やって良かった」という気持ちになったのでしょう。
これまで他者から感謝されるなんてことが無かった人は自身がヒーローになったような気持ちになったのかもしれません、この瞬間に「es」が自我を目覚めさせるのです。
そしてボランティアから戻ってくると再び平凡で他者との交流もなくつまらない人生が待っています、「もっと社会の役に立ちたい」と考えてしまうのも容易に推測できます。
酷い場合は会社を辞めてまでも全国各地の被災地に行ってしまいます、日本に生き先が無ければ海外にまで行ってしまうのです、彼らは自身を社会に必要とされる人でありたいと欲する「社会依存」に陥っているのかもしれません。
また1円起業家に多い「自己実現」を口にしてはそれを目指している人がいます、まだ自身が「安全欲求」階層にいるにもかかわらずにです、ここでも面白いのがマズローの欲求階層の2階層飛び超え現象がみられることです。
このような欲求階層の飛び越え現象は精神的な何かが潜んでいると考えるのが正解かもしれません、これが「現実逃避」という現実を素直に受け入れることができない精神状況なのです。
社会依存、その多くは実のところ現実を素直に受け入れることができないという「現実逃避」行為の一つなのかもしれません。
どの国でも特定の年齢層の人にみられる行動心理というものがあります、日本においては特に特徴的なものの一つに「悲劇のヒーロー・ヒロイン」を演じる人の存在があります。
年齢的にはバブル崩壊直後に大学入学や社会人になった人達で、自身のビジネスやプライベートが上手くいってないと「慰めてほしいオーラ」を放ちます。
SNSには自分の惨めな記事で埋め尽くされています、この現象の一つの要因として「幼少時代のテレビアニメや漫画雑誌の影響の可能性が高い」と指摘する心理学者がいます。
高度成長時代が終わった後のオイルショックは一気に日本経済が冷え込みました、この不景気の影響はバブル経済期直前まで続きました、その経済低迷期に合わせたかのように主人公が不幸の象徴であるようなテレビアニメやドラマが放映されていたことは事実です。
幼少の頃の生活状況とバーチャルでのテレビからの影響、この双方での影響により無意識の領域に「悲劇のヒーロー・ヒロイン像」が固定されてしまったのかもしれません、そして自身の身に不都合や不幸なことが起きると「es」が自我を呼び起こし「悲劇のヒーロー・ヒロイン」を無意識のうちに演じてしまうのです。
また特にこういった女性に共通する言葉が「みんなに愛を」というものです、日常的に「愛」を易々と使うことは普通の人であればありません、しかし彼女らは事あるごとに「愛」を連発します。
その矛先は実は他者ではないのです、愛の矛先は自分自身に対してなのです、つまり「みなさん、私を愛してください」の言い換えの言葉に過ぎないのです、そして慰めの言葉や行為を得ては幸福感を味わうのです。
また男性で特に女性に対して「自分は可哀そうな境遇」だという同情を誘うような愚痴をこぼす人がいます、悲劇のヒーローとの見方もできるのですがこの場合はちょっと異なる極めて陰湿な深層心理が潜んでいます。
ここでは詳しくは話せませんが男性のこういった行為が見られる時には注意深く観察した方が良さそうです、成田離婚に多い男性の特徴でもあります。
自分に信頼を寄せていることが確信した瞬間に突如として豹変する人に多くみられる、ある精神疾患に由来する特徴の一つでもあります。