ここ数年間は「真の健康とは何だろう?」という疑問から、食事や行動心理学的なことまで時間の許す限りネットや書籍で情報を収集しています。
その中で最近よく見かけるようになった「ADHD(注意欠如多動性障害=知的障害を伴わない自閉症)」とか「新型うつ」という病名があります、この2つの精神疾患は症状が特定できないもので個人によって様々な症状が出ることで知られています。
知人の脳外科医は精神科にも通じており、「ADHDや新型うつと診断された人が本当に精神病だとしたら日本人のほとんどが精神病患者だ」と言います、聞いた瞬間思わず頷いた記憶があります。
何故ならそういう人は昔から多数いたからです、でも当時は特に精神病とは扱われずに単にその人の個性として扱われていただけなのです。
私の知人である会社経営者は、だるさが取れないと病院に行ったら精神科へ回され「新型うつ」と診断され抱えきれないほどの薬を処方されたといいます、またネットに流れている診断方法でチェックをするとほぼ全員が「病院で詳しく検査してもらいましょう」という結果が出るといいます。
何が言いたいのかというと、こういった精神的な疾患といわれている症状などよりもっと社会的に怖いと思えるのが「es」による抑えられていた自我の解放ではないかということです、なぜなら本当に一夜にして同じ人とは思えないほどに豹変してしまうのですから。
この「es」による自我の目覚めでの行動の数々、これらははたして精神的に異常ではないのでしょうか、これらに関してはネットや書籍で調べても心理的過剰反応・依存症・被害妄想・承認欲求などとしか書かれていません。
昔から「お化けや霊は怖くない、本当に怖いのは人の心だ」と言われます、経営コンサルティングを行っていた頃の8年間は私の人生において極めて特異な期間でした、これほど奇異な行動を取る人との出会いが継続的に起こることはそれまでの人生においてはありませんでした。
会社の秩序や社会の適応抑圧により抑えられていた自我が起業を境に解放されたのでしょうか、会社員時代とは人が変わったかのように身勝手に振る舞いや他者への気配りができない人が多数現れては消えていきました。
多くのこういった人達との出会いで心の底から思えることが上記の一言です、本当に人の心とは何歳になっても怖いと思うばかりです、そしてこの人たちとの出会いは徐々に大きなストレスを感じるようにもなってきたのです。
起業家は全ての経営責任をまっとうする職業です、つまり本来であれば会社員時代以上にマナーや社会通念を重視し他者を気遣わなければ自身のビジネスを行えないのです、これができない人は起業家ではなく起業という名を借りて自分勝手で無責任なことを行う人だと思わざるを得ません。
私にとって「人は本来大好きですが同時に大嫌いな対象」でもあります、私は信頼関係が構築できている人とだけ毎日でも接していたいというのが本音です、どこの誰か解らないような人と繋がるSNSやネットコミュニティの世界にどんな価値観をも見出せません。
この人たちは私と真逆の「人は本来大嫌いですが同時に大好き」な人たちではないのかと思うのです、なのでSNSなどのバーチャルな世界に存在する人たちとは価値観を共有できないのだと自己分析しています。
価値観は確実にビジネスマインドに反映されます、つまりこの人たちは本来の私のビジネスパートナーには成りえない人たちなのです。
実際に現在進行中の事業の多くのパートナーはSNSを一切やっていません、やっていても連絡用に使っている程度で少なくても自身や仲間を売り込むパフォーマンス投稿はゼロです、もっともその必要性も無いのです。
「自分を認めてもらいたい」、この承認欲求は誰にでもある正常なる欲求の一つであり、マズローの欲求階層でいう安全を確保されたうえで生まれる「社会的欲求」の段階です。
ただ必死に頑張ってきた人がなかなか対象の人や組織に認めてもらえないという状況が長くなればなるほど、それを自身で作り上げてしまおうとする突発的行動に出ることがあります。
記憶に久しい考古学者のねつ造問題もその一つです、またニュースにこそなりませんがローカルな組織内での他者を陥れてまで自身の立場を認めてもらおうとする行為なども現代においては日常的に起こりえます。
この裏には長年抑えられていた強いストレスにも似た鬱積が蓄積されていたと考えられ、これが対象の人や組織内でのちょっとした言動や状況がきっかけとなり「es」が自我を目覚めさせてしまうのです。
そして自我が肥大し自分ではコントロール不能に陥り、人としてやってはいけない行為に及んでしまうのです。
「es」により目覚めた自我に支配された自分は本当の自分の姿なのかもしれません、人は生まれ持っての環境により自身の都合の悪いことを何とか誤魔化しながら成長していきます。
その過程において、倫理観という「良い人でありたい」と思う表面意識により無理やり本来の自分を抑え込んだエネルギーが無意識の領域に貯め込まれていきます。
出世欲・成功欲・独占欲などは本来的には表面意識の正常なる欲求であり一つの生存本能とも言えるものです、したがって自身である程度コントロールが可能なものです。
「es」による自我の目覚めはこういった説明できる本能による欲求ではなく、また自身の表面意識でコントロールできるものでもありません。
昔から生まれ変わったかのように一夜にして人間性が変わってしまう人がいます、世間ではこれを「豹変」と称しています。
レディ・ガガのプロデビューのきっかけ、それは貧しいピアニストとしてバーで弾き語りをしていた頃に誰も聞いてくれないことに腹を立て服を脱ぎ捨て下着で演奏したことがきっかけでした、人生のリセットや生まれ変わりは「es」の成せる技なのかもしれません。
一般に言われる「ランニングハイ」、これはマラソン選手が厳しいレースをしているにもかかわらず途中で苦痛が突然無くなり快楽を感じるようになることを指します。
同じような状況がボクシングなどの格闘家にも見られます、相当ダメージを受けているにも関わらず痛みを感じず身体だけが勝手に反応してダウンしても起き上がってしまうのです。
これはスポーツの世界だけではありません、テレビドラマの「リーガルハイ」は公判で弱気になってしまった弁護士が突然弁論中にハイになってしまうシーンがクライマックスで視聴者を釘付けにしました。
雑誌や新聞記者も記事を書いている途中でハイに陥ることもあります、本来書きたくても人として書いてはいけないというような内容まで締め切りに追われて徹夜している時などに突然ハイに入ってしまい、まるで何かにとり付かれたかのように書けなかったことを書いてしまうのです。
私も若い頃に何日も徹夜してのシステム設計のときなどに突然ハイになったこともありますし、コンサルティングにおいてもクライアントの助成金申請期限直前の極限状態でハイに陥り1週間以上はかかる書類作成をたった一夜で作成してしまったことがあります。
この要因の一つがノルアドレナリンです、危機的状況で出る脳内ホルモンの一つで不快ホルモンと呼ばれています、このノルアドレナリンは一気に大量に出ると脳は不快感を感じ全身にアドレナリンが回り細胞を活性化させます。
身体が限界に達するとそれを解消しようとセロトニンを放出し、そして次に快楽ホルモンであるドーパミンや麻痺ホルモンであるエンドルフィンが放出されるのです、これが痛みや疲労を感じずにハイに入る原因と考えられています。
しかし脳内ホルモンだけでは上記の「ハイ」の状況を説明できない事実が多々あります、肉体的な快楽は確かにドーパミンやエンドルフィンによるものと思いますが特に精神的なところはドーパミンの影響だけでは説明できない現象が起こるのも事実です。
このドーパミン大量分泌状態の際に、過去の抑えられていた鬱積したエネルギーが「es」により無意識の記憶の中で一気に解放されてしまうのではないかと私は推測しています、こういう仮説を立ててみると理解しがたい数々の矛盾が説明できるのです。
SNSで大勢の女性に囲まれ男性は自分だけという投稿ばかりを上げている人がいます、どんな職業なのかと調べてみると女性起業家と女性の起業支援を行っているプロデューサーです、しかも若くて美人であることが入会資格のような事も書いてあります。
本当の女性起業家支援であれば年齢や容姿は関係ないはずです、その人が本気でビジネスを行っているとしたら何故対象が女性で美人だけと限定するのでしょうか?
普通であれば自分以外は異性という状況は違和感を感じストレスになるはずなのですが、好んでそうしているのはなぜなのでしょうか?
投稿の内容も極めて特徴的で性を意識させないようにしているのが解ります、しかし同時に同性として大きな違和感を感じざるを得ません。
異性にもてたいとか囲まれたいという願望は誰にでもあることです、しかしそれを実際にビジネスとして実践するまでに考えることはしません、いったい彼に何があったのでしょうか?
男性が男性を顧客にしない理由として一つにロリータコンプレックスに似た感覚があります、最初は男女関係なく支援していたと思います、ところが男性の多くは理論や根拠を求めてきます、更には絶対的な結果が伴わないと厳しいクレームを突きつけてきます。
しかし経験が浅いとその要求に応えるのができない自分の能力や実力に失望するようになります、その失望感から「es」が自我を目覚めさせ若いころに考えていた女性に囲まれるという欲望とミックスし極端な思考になったのかもしれません。
特に若い女性は理論や根拠よりも共感する話題性やグループ活動に安心感を感じる人が多いのです、その意味では自分が男性としてリーダーシップを発揮しやすいのかもしれません。
欲望が満たされプライベートでは惨めな思いをしてきたことが自分がリーダーとして頼られる気持ちよさ、この両面が満たされる状況は一度味わったら止められなくなるのかもしれません。
昔から「トラウマ」という言葉をよく耳にします、「トラウマ」とは心的外傷を指し過去に大きな精神的ショックを受けた場合、その過去の記憶が何かをきっかけに表面意識に蘇り恐怖感やパニックなどを引き起こしてしまう症状を指します。
災害・暴力・事件・迫害など要因と過程はさまざまです、しかし近年よく聞かれる「トラウマ」という言葉の使い方を見ると嫌な事から逃避する目的で使われる場合が多いのも興味深い事実です。
例えば話したくない話題になると「それトラウマなので止めて!」などです、しかし本来の「トラウマ」であれば大きなショック症状を引き起こすなど冷静なる対応ができるはずもありません、多くは言い訳程度に聞いていた方がよいかもしれません。
この心的外傷の「トラウマ」に対して「es」は心的内傷ともいうべき存在で、長年貯め込まれた鬱積や我慢といったストレスエネルギーと考えられています。
また激しいショック症状を引き起こすなどはなく、更には「es」そのものが実体的な事項ではなく概念という領域に留まっているものなので「トラウマ」とはかなり次元が異なっています。
ただ「トラウマ」と「es」はまったく無関係なのでしょうか、例えば「トラウマ」が生じるきっかけに「es」が作用していることはないのでしょうか?
何故なら本来であれば「トラウマ」は表面意識から離れ無意識の領域、つまり潜在意識の中に閉じ込められています。
その潜在意識から表面意識へと蘇らせるきっかけとして「es」により自我が目覚め、その状態で更に何かをきっかけにして「トラウマ」が起こることは有り得ると考えられます。
「es」はあくまでも概念でしかありません、したがってこれを医学的に未来永劫研究されることも無いのかもしれません。
ただ私は「es」は概念ではなく心に作用する何かの因子が有ると考えているのです、そうでなければ説明できない心理作用や行動がたくさん存在しているからです、「es」を概念で終わらせずに権威ある機関でしっかりと研究してほしいと願うばかりです。