2022年9月 3日 01:00
ビジネスにおいてリスクはスパイスである。
無ければ味気なく過ぎれば食えないものとなる。
適度なリスクはビジネスに活力を生む。
コメント:
リスクの無いビジネスは利益を伴わない道楽と同じ。
リスクを避ける行為はビジネスから逃げると同じことである。
ビジネスなら積極的にリスクをスパイスとして愉しむことである。
ただ多ければそれはビジネスではなくギャンブルとなる。
2022年9月 3日 01:00
ビジネスにおいてリスクはスパイスである。
無ければ味気なく過ぎれば食えないものとなる。
適度なリスクはビジネスに活力を生む。
コメント:
リスクの無いビジネスは利益を伴わない道楽と同じ。
リスクを避ける行為はビジネスから逃げると同じことである。
ビジネスなら積極的にリスクをスパイスとして愉しむことである。
ただ多ければそれはビジネスではなくギャンブルとなる。
2022年9月 2日 01:00
「太田道灌(おおたどうかん)」、江戸城を築城した武将の道灌はあるとき鷹狩りに出かけました。
その帰り道で大雨に見舞われ、近くにあった民家に立ち寄り蓑(みの:ワラで作られた当時の雨具)を借りたいと申し入れました。
そのとき娘が近くに咲いていた「山吹」の枝を折って差し出したのです、それを見た道灌は「我は蓑を借りに来たのであって、山吹などは要らぬ」と大変怒ったといいます。
その話を城に戻り家臣の中村重頼に話すと、「殿、その娘は"七重八重花は咲けども山吹の、実の(蓑)一つだに無きぞ悲しき"という歌になぞらえ、この家は貧しく蓑をお貸しいたしたくも蓑の一つもありません、と言いたかったのでしょう」と説明したのです。
これを聞いた道灌は、自分の学の無さにより娘の心意気を理解することができなかったばかりか大声をあげて怒ってしまったと嘆き、その後学問を必死で勉強するようになったと記録に残されています。
人は恥ずかしくて言えないことを行動や例えで示すことがあります、自分のことを自慢するようで失礼だと回りくどく例えで話すこともあります。
このとき、その例えの意味が判らなかったらどうでしょうか?
相手の思いやりや心意気を理解してあげることができません、知らぬということは恥ずかしいばかりでなく多くのチャンスをも逃すことにも繋がるのです。
「できるだけ多くのファンダメンタルズ(物事の原理原則)を得たほうが良い」、というのはこういうことです、立たないウンチクもいざという時に役に立つものなのです、この世に不要な知識など何一つ存在していません。
2022年9月 1日 01:00
「毛利元就」、9歳の若さにして毛利家を継ぎます。
当時の毛利家は尼子家の家臣でしたが、尼子家と大内家の間に挟まれ時々で両家の家臣となり大きな活躍もなく辛抱を強いられていました。
元就が45年間という長き辛抱の時期を破ったのが54歳のときでした、大内・尼子を次々に破り安芸(現在の広島県安芸高田)をあっという間に統一しました。
死去する74歳の頃には中国地方や九州の一部と現在の11県に及ぶ中国一の武将となり、織田信長の天下統一の名の下に最も豊臣秀吉を苦しめたのがこの元就亡き後の毛利家でした。
ところで、私が毛利元就を尊敬するところは何でしょうか?
一つ目は自分の世に出る時期をじっと待ち、当時平均寿命であった54歳にして一念発起したこと、また世に出た瞬時に次から次へと行動を起こし当時最大の武将となったことです。
二つ目は「毛利家を絶やすな」という元就の教えは孫の代まで継承され、一族は天下分け目の関が原の合戦においては勝敗がどうであれどちらかが残るということで両軍に分かれて戦ったこと、つまり元就の教えは徹底されていたということです。
三つ目に、天下人の心得を実子と家臣を差別することなく平等に教えたことです、毛利元就の有名な「三本の矢」エピソードですが正確に記された書物は見つかってはいません。
「三本の矢」エピソードとは言うまでもなく「矢は一本ではすぐ折れるが、三本まとまれば容易く折れない」というもので、「常に何事を行うにも三兄弟が知力・武力を合わせ、決して単独行動をするな」という教えを残したのです。
毛利元就の旗印が「一文字三星」であるところなどから、何者かによって後に作られたエピソードである可能性が高いと言われています。
実子である隆元・元春・隆景の3兄弟に、若いときから武士としての教えを多くの時間を割いて徹底して教育したことは書物に残っています。
書物によると、元就が天下人として教えた人物がもう一人居ます、それは実娘(正確な名前は残っていない)です、つまり三本の矢のエピソードが仮に本当であったのなら三本ではなく四本であったのかもしれません。
2022年8月31日 01:00
「豊臣秀吉」、織田信長という比類無き志を持った本物の天下人に出会うまで今川義元・松平元康・松下之綱主君を変えてきた「落ちこぼれ」でした。
農家に生まれ学問も武芸も無い本物の「落ちこぼれ」人生の人が、如何にして天下を取ったのでしょうか。
歴史研究者の書籍によれば忍者説が有望視されています、忍者との接点を見抜いた信長が何かにつけては好んで登用したといいます。
しかし、竹中半兵衛や黒田官兵衛などの軍師の心を動かし家臣にするなどの偉業は忍者ということだけでは説明が付きません。
では秀吉の最大の武器は何でしょうか、それは「情」です。
秀吉は自分が優れた武芸など何も持っていないことを良く知っていました、だからそれぞれの分野に長けた人材を「情」によって自分の腹心に従えることを優先して行ったのです。
竹中重治(半兵衛)・蜂須賀小六・前野長康・黒田孝高(官兵衛)などが初期の頃から腹心になっています、そして加藤清正・福島正則等は幼少の頃から我が子のように「情」を注ぎ育て上げました。
「情」、それはどんな武器にも勝る最大の武器であり時代が変わっても変わりません、しかし使い所を間違えたり自身が未熟な場合は自身を傷つける「両刃の剣」でもあるのです。
「情」の使い方と使いどころ、これを極めたる者は大いなる人材を得て成功するに違いありません。
「情」は豊かな人間性に宿れば「美徳」、邪(よこしま)な人間性に宿れば「罪悪」と化す代物です、「情」とは陰陽共存する怖い存在でもあるのです。
2022年8月30日 01:00
「伊能忠敬」、彼は55歳から73歳で死ぬ直前まで日本全国を徒歩で歩き、日本で始めて測量機器を用いた精巧なる「大日本沿海與地全図」(日本の全てを網羅)の完成に尽力しました。
その間歩いた歩数は4千万歩と推測され、付き人など全ての経費は忠敬の個人の資産でした。
「大日本沿海與地全図」の最後の仕上げは弟子によって行われ、忠敬の死後3年目に幕府に提出されました。
ここまでは皆さんもよくご存知の話です、でも本当の忠敬の偉大さはそれ以前に始まるのです。
さて、個人の資産を全て継ぎこみ日本全国を約20年間歩いて地図を完成させた忠敬ですが、普通こんなことができるでしょうか?
何が彼を駆り立てたのでしょうか、私の疑問はたったこの一つでした。
実は、彼にはどうしても自分で確認したい「宇宙規模の壮大なスケールの夢」があったのです、それは「地球の大きさを自分の手で知りたい」というものでした。
蘭学が日本に齎されたとき数学に没頭した忠敬は、突然自分の手で地球の大きさを知りたいという衝動に駆られました。
自分よりも年下の蘭学者に弟子入りし猛勉強したのです、そして55歳の時に地元深川と浅草の間で測定を開始しました、しかしあまりに距離が短かったので誤差となり全く意味が無いことに気づくのです。
「地球を測るには、日本の端から端ほどの距離が必要だ!」
そこで幕府に「日本の精巧な地図を作りたい」と申し入れ、どの藩へも出入り自由とするお上のお墨付きを貰ったのです。
その後、日本全国の海岸を弟子数人と歩いて測量し、ついに目標を達成することができたのです。
彼の計算による地球の外周と現在GPSとスーパーコンピュータで計算した外周の差はたったの70kmということが判っています、これは地球規模で考えると誤差の範囲です。
外周を計測するには2地点の北極星と水平面との角度を計測します、その角度により半径と直径が求められるのです、みなさんご存じの3角関数の法則です。
したがって、最初に行った計測では2地点が短距離過ぎて角度に差が出ず、計測が出来なかったということです。
どうでしょう、この歴史教科書には出ていない裏にある真実、そして彼の功績を上回る人生を掛けた「壮大な夢」、私はこの裏事情を知ったとき背筋が寒くなるほどの感動を覚えたのです。
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