「バートランド・ラッセル」、世にいう天才は数多くいますがその中で私が思考的に影響を受け心の師と仰ぐ人を3人上げるとすれば、迷わずアルベルト・アインシュタイン、ジョン・ノイマン、そして私の人生の目標にしたいほどの大天才であるバートランド・ラッセルです。
アインシュタインはいうまでもなく「相対性理論」や「特殊相対性理論」を打ち出し、「量子力学」・「宇宙理論」を飛躍させたあまりにも有名な大天才です。
ノイマンは数学の天才でコンピュータの計算ロジックの基礎を作り、現在使われている大型コンピュータからマイコンまで全てがノイマン型の論理ロジックが基本となっています。
そしてラッセルですが、アインシュタインと親交が深く論理学(アルゴリズム)の世界的な権威であらゆる分野で天才振りを発揮しました。
そして1955年に「ラッセル&アインシュタイン宣言」を発表し、核兵器の使用を禁じ原子力を平和利用しようと訴えました。
この宣言には日本の湯川秀樹も含めた計11人の科学者が署名し、全員がその後にそれぞれの分野でノーベル賞を受賞しています。
私がラッセルを人生の目標としたいのは実はこういう天才科学者としての生き方ではないのです、彼がノーベル賞を受賞したのはなんと物理学賞ではなく「文学賞」だったのです。
人生の晩年、彼はそれまで発見・提唱してきた論理学や数学といった分野から、人間の行動に基づく社会構造や教育理論にそれを応用し多くの思想や哲学を創出し発表しました。
研究の対象を科学から人間、それも「心」の領域に科学者で始めて踏み込んだ人なのです、その多くの理論の中でも特に有名なのが「パラドックス理論」や「階型理論」があります。
これらは当時閉塞感のあった数学や物理学に新たなる方向性をもたらしました、特に「階型理論」はその後AIの言語分析という領域において基本アルゴリズムとして君臨し続けています。
当時の科学者の多くの思考の壁は実は自分自身の「心」にあったのです、それを自らの体験を基に体系的にまとめ論文として発表し続けました、したがって科学者でラッセルを慕う人は多いのです。
彼は当時では驚きの98歳まで生きました、それでも「もっと時間が欲しい」と最後まで言い続け研究に没頭していたのです、もっと多くの時間が彼にあったらもっとAIが早く発展したかもしれません。
クールな科学という分野を生き、「人間」や「心」を科学で解明しようとしたホットな大天才、もっと多くの人に「バートランド・ラッセル」を知ってほしいと願うばかりです。
「寺田寅彦」、東京帝国大学(現東京大学)理学博士で物理学の研究を亡くなるまで続け、同時に理化学研究所研究員を兼務していた日本を代表する物理学の権威です。
寺田寅彦を尊敬する理由としては、彼は天才的な科学者でありながら「科学と文学の融合」という試みを行うという人間臭い一面を持つからです。
その人間性は「我輩は猫である」の水島寒月、「三四郎」の野々宮宗三という小説に登場する人物モデルともなっていることでも解ります。
また「天災は忘れた頃にやってくる」などの金言は、まさに「科学と文学との融合」という彼独自の理想郷を垣間見ることができます。
私はそんな寺田寅彦の幾つかの研究テーマを大学時代に知り図書館で借りまくっては朝まで読み耽り、物事の視点や洞察力に関して感性を大いにくすぐられたことを今でも鮮明に記憶しています。
発表された論文は当時はまったく評価されていませんでしたが、テーマの一つに「沼地のひび割れとキリンの模様の奇妙な一致」というものがありました、これはその後の「形の科学」という新しい科学分野を誕生させるきっかけとなりました。
現在では、「生命体の形は予めプログラムされている」という世界的な大きな研究カテゴリにまで発展しています。
またこの分野での研究者も年々多くなっています、亡くなって既に90年近く経ってようやく寺田寅彦の功績が評価され始めてきているのです。
また、「金平糖の突起角度の科学」(食べて美味しいと感じる突起の角度)、「潮の副振動」(波は全て正弦波の合成であるという実証)、「ツバキの花の落下時期」(同時性の法則)、「藤の実の飛び出し角度」(物を遠くへ飛ばす研究)など、自然現象の中の何でもない事に疑問を感じては研究し論文化していました。
そして、これらの研究成果を文学として作品(随筆)にし「珈琲哲学」・「化け物の進化」・「破片」など約300編ほど残しています、こうして科学をできるだけ判りやすい読みものにしたのです、これが「科学と文学の融合」と言う新潮流を起こしました。
私はこんな素朴な天才の見せる人間臭さに惹かれてしまうのです、そして「科学を文学表現する」という試みには脱帽してしまいました。
科学論文はそれまでは計算式などで主に説明する科学者向けの表現が一般的でした、それを一般の人にも解るようにと難しい理論を簡単な文章での表現法を生み出していったのです。
寺田寅彦は表彰や勲章などでの大きな功績こそ残すことはありませんでした、しかし確実に多くの科学を愛する者の心の中に生き続けていると思ってやみません。
私もその一人です、「物事の本質を固定概念や思い込みを排除し、見たままに素直に見極める」はビジネスにもプライベートにも大いに役立っている思考の一つです。
きっと大学時代に彼の論文に出合っていなかったら、現在こうして100を越える特許出願はできなかったのかもしれません。
「太田道灌(おおたどうかん)」、江戸城を築城した武将の道灌はあるとき鷹狩りに出かけました。
その帰り道で大雨に見舞われ、近くにあった民家に立ち寄り蓑(みの:ワラで作られた当時の雨具)を借りたいと申し入れました。
そのとき娘が近くに咲いていた「山吹」の枝を折って差し出したのです、それを見た道灌は「我は蓑を借りに来たのであって、山吹などは要らぬ」と大変怒ったといいます。
その話を城に戻り家臣の中村重頼に話すと、「殿、その娘は"七重八重花は咲けども山吹の、実の(蓑)一つだに無きぞ悲しき"という歌になぞらえ、この家は貧しく蓑をお貸しいたしたくも蓑の一つもありません、と言いたかったのでしょう」と説明したのです。
これを聞いた道灌は、自分の学の無さにより娘の心意気を理解することができなかったばかりか大声をあげて怒ってしまったと嘆き、その後学問を必死で勉強するようになったと記録に残されています。
人は恥ずかしくて言えないことを行動や例えで示すことがあります、自分のことを自慢するようで失礼だと回りくどく例えで話すこともあります。
このとき、その例えの意味が判らなかったらどうでしょうか?
相手の思いやりや心意気を理解してあげることができません、知らぬということは恥ずかしいばかりでなく多くのチャンスをも逃すことにも繋がるのです。
「できるだけ多くのファンダメンタルズ(物事の原理原則)を得たほうが良い」、というのはこういうことです、立たないウンチクもいざという時に役に立つものなのです、この世に不要な知識など何一つ存在していません。
「毛利元就」、9歳の若さにして毛利家を継ぎます。
当時の毛利家は尼子家の家臣でしたが、尼子家と大内家の間に挟まれ時々で両家の家臣となり大きな活躍もなく辛抱を強いられていました。
元就が45年間という長き辛抱の時期を破ったのが54歳のときでした、大内・尼子を次々に破り安芸(現在の広島県安芸高田)をあっという間に統一しました。
死去する74歳の頃には中国地方や九州の一部と現在の11県に及ぶ中国一の武将となり、織田信長の天下統一の名の下に最も豊臣秀吉を苦しめたのがこの元就亡き後の毛利家でした。
ところで、私が毛利元就を尊敬するところは何でしょうか?
一つ目は自分の世に出る時期をじっと待ち、当時平均寿命であった54歳にして一念発起したこと、また世に出た瞬時に次から次へと行動を起こし当時最大の武将となったことです。
二つ目は「毛利家を絶やすな」という元就の教えは孫の代まで継承され、一族は天下分け目の関が原の合戦においては勝敗がどうであれどちらかが残るということで両軍に分かれて戦ったこと、つまり元就の教えは徹底されていたということです。
三つ目に、天下人の心得を実子と家臣を差別することなく平等に教えたことです、毛利元就の有名な「三本の矢」エピソードですが正確に記された書物は見つかってはいません。
「三本の矢」エピソードとは言うまでもなく「矢は一本ではすぐ折れるが、三本まとまれば容易く折れない」というもので、「常に何事を行うにも三兄弟が知力・武力を合わせ、決して単独行動をするな」という教えを残したのです。
毛利元就の旗印が「一文字三星」であるところなどから、何者かによって後に作られたエピソードである可能性が高いと言われています。
実子である隆元・元春・隆景の3兄弟に、若いときから武士としての教えを多くの時間を割いて徹底して教育したことは書物に残っています。
書物によると、元就が天下人として教えた人物がもう一人居ます、それは実娘(正確な名前は残っていない)です、つまり三本の矢のエピソードが仮に本当であったのなら三本ではなく四本であったのかもしれません。
「豊臣秀吉」、織田信長という比類無き志を持った本物の天下人に出会うまで今川義元・松平元康・松下之綱主君を変えてきた「落ちこぼれ」でした。
農家に生まれ学問も武芸も無い本物の「落ちこぼれ」人生の人が、如何にして天下を取ったのでしょうか。
歴史研究者の書籍によれば忍者説が有望視されています、忍者との接点を見抜いた信長が何かにつけては好んで登用したといいます。
しかし、竹中半兵衛や黒田官兵衛などの軍師の心を動かし家臣にするなどの偉業は忍者ということだけでは説明が付きません。
では秀吉の最大の武器は何でしょうか、それは「情」です。
秀吉は自分が優れた武芸など何も持っていないことを良く知っていました、だからそれぞれの分野に長けた人材を「情」によって自分の腹心に従えることを優先して行ったのです。
竹中重治(半兵衛)・蜂須賀小六・前野長康・黒田孝高(官兵衛)などが初期の頃から腹心になっています、そして加藤清正・福島正則等は幼少の頃から我が子のように「情」を注ぎ育て上げました。
「情」、それはどんな武器にも勝る最大の武器であり時代が変わっても変わりません、しかし使い所を間違えたり自身が未熟な場合は自身を傷つける「両刃の剣」でもあるのです。
「情」の使い方と使いどころ、これを極めたる者は大いなる人材を得て成功するに違いありません。
「情」は豊かな人間性に宿れば「美徳」、邪(よこしま)な人間性に宿れば「罪悪」と化す代物です、「情」とは陰陽共存する怖い存在でもあるのです。