2022年9月 1日 01:00
「毛利元就」、9歳の若さにして毛利家を継ぎます。
当時の毛利家は尼子家の家臣でしたが、尼子家と大内家の間に挟まれ時々で両家の家臣となり大きな活躍もなく辛抱を強いられていました。
元就が45年間という長き辛抱の時期を破ったのが54歳のときでした、大内・尼子を次々に破り安芸(現在の広島県安芸高田)をあっという間に統一しました。
死去する74歳の頃には中国地方や九州の一部と現在の11県に及ぶ中国一の武将となり、織田信長の天下統一の名の下に最も豊臣秀吉を苦しめたのがこの元就亡き後の毛利家でした。
ところで、私が毛利元就を尊敬するところは何でしょうか?
一つ目は自分の世に出る時期をじっと待ち、当時平均寿命であった54歳にして一念発起したこと、また世に出た瞬時に次から次へと行動を起こし当時最大の武将となったことです。
二つ目は「毛利家を絶やすな」という元就の教えは孫の代まで継承され、一族は天下分け目の関が原の合戦においては勝敗がどうであれどちらかが残るということで両軍に分かれて戦ったこと、つまり元就の教えは徹底されていたということです。
三つ目に、天下人の心得を実子と家臣を差別することなく平等に教えたことです、毛利元就の有名な「三本の矢」エピソードですが正確に記された書物は見つかってはいません。
「三本の矢」エピソードとは言うまでもなく「矢は一本ではすぐ折れるが、三本まとまれば容易く折れない」というもので、「常に何事を行うにも三兄弟が知力・武力を合わせ、決して単独行動をするな」という教えを残したのです。
毛利元就の旗印が「一文字三星」であるところなどから、何者かによって後に作られたエピソードである可能性が高いと言われています。
実子である隆元・元春・隆景の3兄弟に、若いときから武士としての教えを多くの時間を割いて徹底して教育したことは書物に残っています。
書物によると、元就が天下人として教えた人物がもう一人居ます、それは実娘(正確な名前は残っていない)です、つまり三本の矢のエピソードが仮に本当であったのなら三本ではなく四本であったのかもしれません。