顔を合わせれば厳しい事ばかり言われ提案しても受け入れてもらえない、お願い事も切り出せないほどの威圧感がある、こういう人は多くの場合一緒に居ても楽しくないし自身の思ったようにコントロールできずにメリットも少ないと思われがちです。
逆にこのような人に「自身を成長させてくれる為に存在している」と思えるようになって積極的に会う人は成功する可能性が極めて高い人と言えます、冷静に考えてみましょう、何故その人は本人も楽しい気分になれない人に時間を割いて会ってくれるのでしょうか?
人は意味も理由も無いことはしません、無駄なことに時間もお金も使いたいと思う人もいません、会おうとしてくれている間は何かを学んでほしいと思っているからです。
自身が経験していない事は理解不能です、でもきっとそういう人は多くの経験をしている人です、つまりその人の経験してきている事は自身が経験していない事が多く自身は狭い範囲でしかその人を評価していないのです。
「親の気持ちは子を持って初めて解る」と言います、自身が多くの経験をしてその人と同じ土壌に上がればその人が何を考えて伝えたかったのかが解ることでしょう。
経営に必要な大局の学び、一緒に居て楽しい人からでは僅かな事しか学べません、嫌な人や事項から逃げていては歳を取るだけで本当の学びはありません、だからいつまでも経っても成長しないのです。
知り合いが100人いたら全員に好かれ認められるということはまず有り得ません、どの世界でも個性を出せば出すほどに好かれ認められる割合は減少していきます、万人に好かれ認められるのが生業としている芸能界をみても個性派ほど支持層はマニアックなどと呼ばれるマイノリティとなります。
しかし割合が低ければ低いほど熱狂度が増していく傾向にあることも事実であり統計上も正しいことが証明されています、ある程度の認知度を得ている人はどの世界でも「支持者数×熱狂度」は同じになると言っても過言ではありません。
ビジネス人脈構築においてもこの法則はそのまま当てはまると考えています、そこで考えなくてはいけないのが自身のビジネスはマジョリティを必要としているのかマイノリティを必要としているのかということです、これを把握せずして人脈を開拓しても全く逆効果になる可能性は極めて高くなります。
例えば特徴的な技術を武器にするような人は極限られたニーズである可能性が高いです、であれば誰でも良いということではなくて確実なニーズを持つ人だけに認められればよいことになります。
つまり集客やマーケティング手法はその業種や起業によって完全にアレンジしなくては意味の無いものとなってしまうことを意識しなくてはなりません、業種を指定しないマーケティング論や集客手法などはやってみれば解るように利益に繋がらないものばかりです。
そしてブランディングとマーケティングの最も異なる点がここにあります、ブランディングはターゲットを明確にし入り口からではなく出口から逆に入口へと構築を進めるのです。
暑くなれば冬の寒さが恋しくなる。
寒くなれば夏の暑さが懐かしい。
コメント:
人間とはまことに勝手で面白い、自分の都合で全ての事項を考えるなかれ。
あちこちの畑に種をまくのは良いとして。
他者の畑で収穫できた物はあくまでも他者の物である。
コメント:
他者が耕した田畑をまるで自分の物のように利用する人が多い。
他者の苦労を踏み台にして利益を得ようとしても結局は身につかない、種を捲くなら自分で耕した畑に捲くことだ。
ビジネスマインドなのかビジネス手法なのかは別にして敵を作りやすい人が確実にこの世には存在しています、普通はそういう人と例え短期間であっても組むことは自分も同じ類と見られるデメリットを考えて躊躇します、ただ敵を作りやすい人と組むことに関してですが視点を変えると意外なメリットも見えてくるのです。
その一つは本当に覚悟の有る人が寄ってくるということです、つまり組むと決めた人の身辺にどのような人が居ようが「きっと何かの作戦が有ってのこと」と勘を働かせ自身の人を見る目を信じる本物の人達です。
もう一つはビジネスを行うに覚悟の無い人が自然に淘汰されていきます、つまり噂や間接的な事項に気を奪われ仲間に嫌われたくない一心で距離を置こうとする人達です。
更に関連して様子見しながらも何らかの関係を距離を置きつつも保つ人達の存在、この人たちは障害が除かれた瞬間に方針を変える世渡り上手な人達ですが信頼に値するかは別物です。
周辺にいる人脈を自身は何もせずとも自然の流れの中で綺麗に3つのグループに分けてくれるのが敵を作りやすい人の存在価値なのです、ただ長期展望の中での短期勝負として割り切る必要があります、長期化はそれこそ致命傷となります。
自身が敵を作りやすい人だとすれば覚悟さえ本物であれば常にマイペースに人間関係を構築できるという可能性があります、さて敵を作りやすい人とは一体どんな人なのでしょう、少なくてもどうでもよい人であれば敵とか味方という考えをすることもしないということです。